文庫未収録短編  漂舶《ひょうはく》  (『ドラマCD 東の海神 西の滄海』付録)  丕緒《ひしょ》の鳥  (『yom yom vol.6』収録)  落照の獄  (『yom yom vol.12』収録) [#改ページ] [#ページの左右中央]   漂舶《ひょうはく》 [#改ページ]       1  雁州国《えんしゅうこく》、関弓山《かんきゅうざん》。雲海を貫くその山頂は、文字通りの絶海の孤島、そこに広がる玄英宮《げんえいきゅう》は未明の海の中に孤立している。沈みきれずに取り残された月の下、凪《な》いだ海面は銀糸で漣《さざなみ》を織り込んだ一枚の広大な錦のようだった。  夜明けにはまだ間がある。にもかかわらず玄英宮の一郭、仁重殿《じんじゅうでん》と呼ばれる建物は、すでに下官《げかん》で溢《あふ》れていた。特に主殿《しゅでん》の臥室《しんしつ》周辺は、集まった待官《じかん》女官《にょかん》で十重二十重《とえはたえ》のありさまである。その誰もが、格別なにをするというわけでもなかったが、油断なく周囲を見回し、緊張の色を濃くしている。とりわけ戸口や窓の近辺にたたずんだ下官たちには、息を殺している風情すらあった。  しわぶきひとつない中、遅々として時は流れる。やがて東から曙光《しょこう》が射して、それを待っていたように高らかな鐘の音が響いた。  弾かれたように、あちこちの下官たちが動き始めた。戸口を開き、窓を開け、光を入れながらその場を塞ぐ。臥室の中に控えた女官たちが、勢いをつけて豪奢《ごうしゃ》な牀榻《しょうとう》の扉を開き、その中に雪崩《なだ》れ込んだ。 「台輔《たいほ》! お目覚めくださいませ!」  女官のひとりが声を張りあげると、寝台の幄《とばり》の中で、じたばたと身動きをした気配がした。ふたりの女官が左右から幄を引き開ければ、逃げるように衾褥《ふとん》の中に潜り込んだ人影がある。そうする間にも水桶が持ちこまれ、衣桁《いこう》の衣類が替えられ、身繕《みづくろ》いのための道具が卓子《つくえ》の上に調えられる。一斉に動く女官たちで、牀榻《しょうとう》の中は足の踏み場もない。 「ご起床の刻限でございます」 「お起きなさいませ」  女官のひとりが衾褥を引き剥がせば、別のひとりが寝台の上で飛び上がった主《あるじ》を引き起こす。三人目が寝間着を脱がそうと手をかけると同時に、四人目が官服を広げ、着せかけようと構えている。 「待った! 起きてる、起きてるってばーっ!」  六太はそれらの女官の手を振りきり、枕に縋《すが》ってあたふたと寝台の奥に逃げ込んだ。寝台の脇にびっしり並んで口々に起床を促す女官たちが、文字通り壁のようである。しかもこの壁は、いまにも寝台の上に崩れて押し寄せてきそうだった。 「台輔、お起きになってくださいませ」 「お召し替えを」 「お髪《ぐし》を」 「い、いま起きるから! とにかくひとまずみんな落ち着け。——な?」  一国の宰相《さいしょう》が枕を盾に逃げまどっているようでは、なにより自分が落ち着くほうが先であろう。 「ささ、台輔、お早く」 「刻限でございます」 「起きます。いま起きます、すぐ起きますってば」 「さあ、——台輔」  六太は枕を抱いて叫んだ。 「起きておとなしく朝議に行けばいいんだろーっ!」       2  内殿の広い院子《なかにわ》には、涼しげな朝日が満ちていた。その上の空は、かんと澄んだ青、雲海の波の音と、わずかに潮の匂いを含んだ風が吹き渡っている。  六太《ろくた》は、いかにも秋めいたその景色を恨《うら》めしく見ながら、外殿へと渡る。朝も早くから憔悴《しょうすい》しきって外殿に入ると、同じく憔悴した風情の主《あるじ》と行き会った。雁州《えんしゅう》国の国王、延王尚隆《えんおうしょうりゅう》である。 「よお……」 「今朝もまた会ったな」  げんなりしたように言う尚隆の、その身なりだけは威風堂々としていたが、声にも顔にも国王たる尊厳はいささかもなかった。 「今日こそは会いたくねえと、切実に思ってたんだけどな」  六太は言って、付き従う侍官《じかん》たちから、さりげなく距離をあける。尚隆の脇に並んで声を潜めた。 「……なあ、どうにかならんのか、この騒ぎ」 「俺に言うな」  国王の声は低く、苦渋に満ちている。 「お前、この国で一番偉いんだろ? 勅命《ちょくめい》をもってなんとかしろ」 「お前は雁で一番偉いのが誰だか知らんのか」 「……帷湍《いたん》」  六太が呟《つぶや》き、主従は揃って溜《た》め息《いき》をついた。 「尚隆が妙なことをするからだぞ」  延王尚隆が即位して百年以上が過ぎた。内政が軌道に乗り、大元《たいげん》と年号を改めて四年、尚隆は上級官の異動を言い出した。 「お前も同意したろうが」  長年、同じ官吏《かんり》が同じ職務を掌握《しょうあく》すれば、どうしても政《まつりごと》は偏る。当人にそのつもりがなくとも政にも癖《くせ》というものがあるし、長い間にそれが蓄積されることは避けられない。偏向を抑え硬直を排除し、同時に官吏の視野を広げるためにも、功績の有無にかかわらず定期的に配置を変えるべきだと尚隆は主張したし、これには確かに一理があった。 「……そりゃ、同意はしたけどさ。けども、なんだって帷端が大宰《たいさい》なんだ」 「仕方あるまい。本人がどうしてもと言って望んだのだからな」  尚隆は帷端を六官の長、冢宰《ちょうさい》に推《お》した。にもかかわらず、当の帷端が大宰でなければ嫌だと言う。大宰でなければ仙籍《せんせき》を返上して隠居するというのだから、望んだというより脅《おど》したと言ったほうが、事実に対して正確であろう。 「六太も好きにさせてやれ、と言っただろうが」 「こんな深謀遠慮《しんぼうえんりょ》があったとは思わなかったんだよ……」  天官《てんかん》長大宰は、宮中の諸事を司る。なにしろ内政が優先で、王宮内部のことなど構っている暇《いとま》がなかった。宮中は人も建物も長年の放置に荒れ果てたままだったから、ここらで宮中を整えることも必要だろうと思われた。——そして帷端は、何よりもまず王と宰輔《さいほ》の生活態度を整えるべく、鋭意努力することにした、というわけだ。 「なんだって夜明けと同時に起こされて、朝も早くから書経《しょきょう》を写して、草案《そうあん》だの上奏《じょうそう》だのに目を通さないとなんないんだ」 「俺に訊《き》くな」 「近頃じゃ、夜明け前に目が覚めるんだぞ。もう来るか、いま来るかと思ってびくびくしながら鐘を待ってるのって、すげー心臓に悪い」 「まったくだ。かと言って、刻限の前に起き出そうとすれば、侍官が駆け寄ってきて牀榻《しょうとう》の中に押し戻すしな」 「冗談じゃないぜ。おれ、失道《しつどう》しちゃいそう……」  六太が溜《た》め息《いき》をついたとき、朝議の間の入り口についた。 「——朝っぱらから、縁起でもないお話ですなあ」  大扉の前には、三人の人間が控えている。中央で嬉々として声をあげたのが、噂の人、天官長帷端である。 「失道とは聞き捨てならんな」 「本当ならば一大事、これは主上《しゅじょう》に行状を改めていただきませんと」  帷端の左右から言ったのが、夏官《かかん》長|大司馬《だいしと》の成笙《せいしょう》、春官《しゅんかん》長|大宗伯《だいそうはく》の朱衡《しゅこう》である。宮中の諸事を司る天官に、身辺警護をも司る夏官、祭祀・儀礼を司る春官を押さえられると、はっきり言って六太も尚隆も手も足も出ない。この三官のどれかが身辺にいないということはあり得ないからである。  尚隆がぼそりと呟《つぶや》く。 「こいつら、示し合わせておったな」  六太はげんなりと頷《うなず》いた。 「成笙が司馬になりたがるなんて、おかしいと思ったんだよ……」  成笙はそもそも、禁軍左軍《きんぐんさぐん》を預かる将軍だった。同じく夏官に属すとはいえ、成笙は本来、武官であって文官ではない。帷端にしても以前は地官《ちかん》長|大司徒《だいしと》で、土地と民、国庫を束ねてきた。現場を指揮し、実利を挙げることに熱心だから、実利もなにもない天官はいかにも気性にそぐわない。 「朱衡の春官は、らしかったんで油断した」 「だよな。——おれたちって、ひょっとして……」  六太が溜《た》め息《いき》をつくと、尚隆は渋面を作って頷く。 「……こいつらにハメられたんだ」       3 「よしよし。よく続いているじゃないか」  事態の首謀者、帷端《いたん》は満面に笑みをたたえて自画自賛の体《てい》である。  朱衡《しゅこう》宅の庭院《にわ》には雨期の前の冴《さ》えた月光が降り注いでいた。庭院の一方は雲海に面し、庭木のすぐ向こうの岩場に、波は打ち寄せている。潮を含んだ夜風と波の音、そして白々とした月の光が陶《とう》の卓子《つくえ》の表面をも洗っている。 「最初の頃こそ、なんのかんので逃げられたが、これでふた月、皆勤だ」  卓子に三つの酒杯を並べ、朱衡は軽く苦笑した。 「いかに主上《しゅじょう》、台輔《たいほ》といえども、あれだけ身辺を固められてしまえば、身動きできませんでしょう」 「身動きする気も起きないように、早朝から夜まで、がっちり絞り上げているからな。あれじゃあ、疲労《ひろう》困憊《こんぱい》して、夜遊びするくらいなら寝ていたいと思うだろう」 「……そこまでしますか」  なんとでも言え、と帷端は嬉々としたものだった。 「国政も落ち着いたことだし多少のことは、と大目に見てやれば、図に乗ってふた月も三月も行方をくらます。雁《えん》のあちこちを見聞しているぶんにはまだしも罪がないが、国を出てあちこちさまよい歩いたあげく、他国で悶着を起こすんだからな、あの連中は。これもまあ、身から出た錆《さび》ってもんだろう」  まったくだ、と頷《うなず》いたのは成笙《せいしょう》である。いつの間にか行方が知れず、すわ大事かと身構えてみれば、当の主従ははるばる奏《そう》国にまで出向いて市中に紛れ込み、あげくの果てには悶着を起こして捕らえられ、素性がばれて親書が届いた。宗《そう》王が厚誼《こうぎ》で護衛をつけて送らせると言ってくれたものの、まさか甘えるわけにもいかず、丁重に断って雁から迎えに行ったのだが、文字通り顔から火が出るかと思った。 「なに、仮にも王と麒麟《きりん》だ、多少疲れたからといって、病むわけでなし、死ぬわけではなし。この調子で身にしみるまで締め上げておけ」  成笙の物言いに、朱衡は呆《あき》れたようにする。 「まだ奏の一件を根に持っているんですか」 「当たり前だ。雁も平和におなりのようで結構でございます、と公主《こうしゅ》に笑われた俺の身にもなってみろ」  それは確かに嫌かもしれない、と朱衡は月を見上げた。 「なに、これでほんの百年ばかり締め上げておけば、少々|緩《ゆる》めても以前ほどの無軌道には戻らんだろう」  朱衡は平然と言ってのけた成笙の顔を見る。 「百年もこの調子でやるつもりですか?」 「そのくらいしなければ、身にしみる連中ではなかろう」 「しかし、内殿の下官《げかん》の苦労も少しは……」  なんの、と帷端は笑った。 「下官は喜んどるぞ。なにしろ日毎に各|官府《かんふ》から賄《まいない》が届くからな」  思わず朱衡は成笙と顔を見合わせた。 「……賄? あなたはそれを黙認しているんですか」 「なに、大事などありゃせん。どの官府も、自分のところの朝議を休まれては名折れだと思っているようだからな。心してくれと小金《こがね》が横行するのぐらい大目に見てやれ」  朱衡は考え込んだ。諸官は冢宰《ちょうさい》のもと、六官府に束ねられる。天地春夏秋冬の各官府が順番に朝議を待って六日、これに六官三公が一堂に集まって、七日で一巡することになっている。朱衡とて春官《しゅんかん》が朝議を待つ日には、王にも台輔にも欠けてほしくない。懸案が進まないだけでなく、他の官府に対する立場もあれば意地もある。 「なるほど……。近従に小金を握らせて、何がなんでも起こして外殿に送り出してくれと頼むわけですね」 「意地が過ぎてだな、他府の日には休ませてくれ、と言って小金を握らせるのならともかく、そうでなきゃ下官も張り合いがあっていいだろう。第一、そのくらいの旨味《うまみ》がなきゃ、あの莫迦《ばか》どもの相手はしてられんぞ」 「……意外に目的のためには手段を選びませんね」 「このくらいしないと、朝議にも出てこない、あいつらに問題があるんだ」  それはそうですが、と朱衡は呟《つぶや》いた。 「しかし……あの方々が、このままおとなしくしているとは思えませんが」  それだ、と成笙は杯を置いた。 「連中のことだから、何がなんでも逃げだそうとするに決まっている」 「一時たりとも目を離すなと、下官には強く命じている。人払いされた時にも必ず全ての戸口の前に陣取って、絶対に離れるな、とな」 「力ずくで、という手もある。いくらなんでも玉体に手はかけられんだろう」 「五門《ごもん》の警護を厳重にして、何があっても連中を門の外に出すなと言ってある」 「禁門《きんもん》は」 「もちろん禁門もだ。閹人《もんばん》の数は倍に増やした。特に厩舎《うまや》の者には、連中を取り囲んで目を離さないよう、絶対に乗騎《じょうき》の側に寄せないよう、徹底させとる」 「問題は、たまと、とらではないのですか。|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》は利口ですから、呼べば自ら迎えに行きますよ」  朱衡が指摘して、成笙も頷《うなず》いた。あの主従に※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を与えるのは、みすみす出奔《しゅっぽん》してくださいと言うようなものだが、なにしろ一頭は梟《きょう》王の時代からいたものだ。その初代・たまはすでに死んだが、諸官整理のおり、保身に走った官吏《かんり》が無思慮にも二代目と、とらを献上してしまったから質《たち》が悪い。 「心配はいらんさ。そう思ってだな、二頭は司馬《しば》の厩舎に移してある」 「だが、台輔には使令《しれい》がいる」  成笙が言うと、帷端は詰まった。 「それは……そうだが。仕方なかろう。使令ばかりは捕らえて籠《こ》めておくわけにはいかんわけだし」  成笙は冷ややかな目つきで帷端を見た。いくら万全の体制を布《し》き、本人の周りを取り囲ませても、使令に攫《さら》っていかれたらどうにもならない。しかも麒麟《きりん》には最後の手段、転変《てんぺん》という手もある。 「冬官《とうかん》府に頼んではあるんだ。ほら、ええと、どの謀反《むほん》のときだったか、台輔の角を封じられたことがあったろう。なんとかいう石だ。——あれさえ、なんとかなればだな」  成笙は憮然《ぶぜん》とした。 「それを台輔が、おとなしくつけさせてくれるとでも思うのか。肝心なところで大穴が開いているな」  さらに言葉に詰まる帷端である。まあ、と朱衡はなだめるように苦笑した。 「とりあえず台輔には、主上のせいだと吹き込んでおきましたが」 「——は?」 「ですから、こんな不自由をするのも、主上のせいだと。台輔のご気性から言って、使令を使って逃げ出すにしても、主上は置き去りでございましょう。当然、主上はそれが面白くございませんから、使令に出奔《しゅっぽん》はならぬとお命じになりますでしょうね。使令は台輔の身に危難がある場合でなければ、主上の命《めい》が優先でございますから」 「うーむ……」  帷端は唸《うな》って成笙に視線を向けた。成笙も呆《あき》れたように朱衡を見ている。 「けれどもそんな姑息《こそく》な手が、どれだけ通用しますやら。あの方々も、その気になれば手段を選びませんからね」 「まあ、なあ……」 「ともかくも、主上と台輔が本気で逃げ出す気になるまでに、できるだけこきつかっておくことでしょうねえ」 「お前……やっぱり食えないな」  呆れたような帷端の声に、朱衡は笑う。 「とんでもない。わたしは謹厳実直だけが取《と》り柄《え》ですから」  嘘《うそ》をつけ、と二つの独白は、とりあえず帷端と成笙の胸の内に畳み込まれた。       4 「おれ、こんなせーかつ、もうヤだ……」  六太《ろくた》が呟《つぶや》くと、尚隆《しょうりゅう》も無言で頷《うなず》く。尚隆の広い私室の中は無人だが、これはとりあえず人払いをしたからで、そうでなければ四六時中、侍官《じかん》女官《にょかん》が側にひしめいている。それだけでもウンザリするというのに、人払いをしても扉の外、窓の外に群がっているから落ち着かない。 「お前が悪いんだぞ、ふらふら遊び歩いているから。尚隆のせいで、おれまでいい迷惑だ」 「遊び歩くのはお前も同罪だろう」  遊びの質が違うんだ。と六太は反駁《はんばく》したかったが、似たようなやりとりは何度もあったことなので繰り返すのも面倒だ。なにしろ早朝から叩き起こされ、政務だ教養だと寸暇を惜《お》しんで追い回されるおかげで、夕餉《ゆうげ》が終わればもう眠い。  六太は卓子《つくえ》にへばりついた。 「なんとかしてくれよお」 「……できんでもないが」  尚隆の低い声に、六太はがばと身を起こした。 「——尚隆」  期待を込めて、自然、高くなった声に、尚隆は手で静まるように示す。 「お前が和議《わぎ》を結ぶ気があるならな」 「和議ぃ?」 「連中の手口を見ておれば、俺とお前が結託しないことを前提にしていることは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。ことこれに関しては、足を引っ張り合うだろうという読みだろう」 「当たり前だ。おれはお前のとばっちりで酷《ひど》い目にあってんだからな」 「そこが連中の策だと言うに。——まあいい。ともかくも俺とお前が結託すれば、打つ手はなくもない、ということだ」 「……どちらかが囮《おとり》になるとか?」 「互いに囮になって、下官《げかん》たちを引っ張りまわすと言ったほうがいいな。俺が囮になっている間に、お前は俺が逃げ出すための算段《さんだん》をする。一区切りついたら今度はお前が囮になって、俺はお前が逃げ出すための算段をする」  ふうん、と六太は呟《つぶや》いた。あの三人が足を引っ張り合うことを計算のうちに入れているのだとしたら、協力するのは有効かもしれない。とはいえ、尚隆に裏切られて、体《てい》よく自分だけが囮にされたのではたまらない。 「逃げそびれたほうは、絶対、酷い目にあうよなあ」 「だから、そうならないよう結託するんだろうが」 「お前がそういうことを持ちかけるところが怪しい感じ」 「何をいう。お前が憔悴《しょうすい》しているようなので、助けてやろうと言っておるんだろう」  六太は指を突きつけた。 「ぜんっぜん、信用できねーな、それは」 「主《あるじ》の温情を疑うか?」 「お前の温情を信じるくらいだったら、朱衡《しゅこう》たちが突然、いくらでも遊びに行ってこいとにこやかに送り出してくれるのを期待したほうがまし」  第一、と六太は尚隆の顔を覗《のぞ》き込む。 「温情だってんなら、お前が囮《おとり》になっておれだけ逃がしてくれたらいいんじゃねえの? 囮になってくれるまでもなく、お前が使令《しれい》に下した命令を、ちょっと取り消してくれたら、おれはいまでも出奔《しゅっぽん》できるんだけどー?」  痛いところを突かれたように、尚隆は顔をしかめた。 「……ちと、訪ねたいところがあるんだ」 「へーえ?」 「この頃にまた来ると、約束してあるのでな。——六太、頼む」  さては女か、と思いながらも、頼むと言われれば悪い気はしない。 「どうしようかなー。なんとか逃げ出せても、帰ってきてからが怖《こわ》いって気もするしー」 「なに、いよいよの段になったら、それこそ勅命《ちょくめい》でなんとでもしてやる」 「それ、いまやれば?」  尚隆はさも意外なことを言われた、というふうに眉《まゆ》を上げた。 「連中はこれで俺たちを閉じこめた気でいるのだぞ。裏をかいてやらなくてどうする」  六太は一拍おいて手を打った。 「そりゃ、そーだ」 「勅命や使令を振り回すのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》、逃げるなら真正面から正々堂々と逃げ出す」 「裏をかくのを、正々堂々というかなあ」 「乗らんのか?」  六太はにんまりと笑う。 「乗った」  言って六太は茶器を手に取り、床に向かって軽く構える。怪訝《けげん》そうにした尚隆に笑ってみせた。 「油断させるためにもさ、ここで大喧嘩《おおげんか》しといたほうがいいんじゃねえの?」       5  眼下に広がる野は、目が覚めるほど鮮やかな黄金色《きんいろ》だった。 「——すごい」  尚隆《しょうりゅう》と良からぬ相談をしてから五日、一日がかりで玄英宮《げんえいきゅう》を舞台に壮大な鬼ごっこをやったあげく、うまうまと関弓山《かんきゅうざん》を抜け出した。  その日が天官府《てんかんふ》の朝議に当たっていたのは、ほんの意趣返しというものだ。帷湍《いたん》はさぞかし怒っているだろうが、とらの手綱《たづな》を使令《しれい》に任せ夜通し駆けたおかげで、玄英宮は遥《はる》か彼方《かなた》だ。帰ればそれなりにひと悶着あるのだろうが、目の前のこの光景を見ると、そんなことはどうでもいいという気になっていた。  ずっしりとした緑に覆《おお》われた山地を越えると、広大な平野に出た。宙を駆けるとらの足下、眼下は一面の農地だ。雨期を目前に控えて収穫の間際、野は見事な黄金色をしている。金の海に風がふいて波紋を描く。打ち寄せる先を目で追えば青い海がみえた。海と空の狭間《はざま》、ごく薄い紫紺の幻のように聳《そび》えるのは、黄海を取り巻く金剛山《こんごうざん》の稜線だ。  雁《えん》の内海側は黒海《こっかい》と青海《せいかい》を分断するように張り出している。ちょうど黒海と青海を分けるのが艮海門《ごんかいもん》、手前は貞州《ていしゅう》、海を隔てた対岸は都のある靖《せい》州の跳び地で艮《ごん》県という。 「こっちの海のほうがずっといい」  六太はひとりごちた。見渡す限りの中空にただひとり、それは海上に取り残された玄英宮のありさまによく似ていた。六太はちらりと目線をあげる。高く澄んだ蒼穹《そうきゅう》が見えるばかり、そこに雲海の水は見えない。空のよほど高いところへ昇れば、角度の加減で玻璃《はり》の板を張ったような雲海の底が見えることもあったが、ほとんどの場合、そこに海があることを確認することはできなかった。だが、たとえ目には見えなくても、そこには海があって天上と天下を隔てる。——隔てられてしまう。 「……尚隆は抜け出せたかな」  玄英宮の騒ぎを笑い交じりに思い出し、尚隆のことだからなんとかしたんだろう、と思う。まあ、どちらでも構わない。自分はこうして下界の空にいるのだから。  とらは豊かに色づいた山野を越え、海上に出る。前方の、あれが金剛山。海を渡り、金剛山の麓《ふもと》に突き出た砂州《さす》のような土地が艮《ごん》県、そこには黄海《こうかい》に入る四令門《しれいもん》のうちのひとつ、令艮門がある。  六太は艮県の、申し訳程度に広がる山野をかすめ飛び、西日を受けながら懐《ふところ》深く入り込んで艮の里《まち》に舞い降りた。艮県は六太自身の所領である靖州の跳び地だが、さすがに六太の顔が分かる者はいないだろう。そういうわけで、とらを降り、悠々と手綱《たづな》を引いて里の南西にある人門《じんもん》に向かった。  人門の宗闕《たてもの》の向こうには、金剛山の山肌が倒れ込むような角度で聳《そび》えている。閉門の時刻にはまだ少し間があるというのに、人門は固く閉ざされていた。人門の先には令艮門しかない。その令艮門が冬至の日にだけ開いて閉じるものだから、人門もまた冬至の日にしか開かない。冬至にはまだ遠い。おかげで門前も艮の里も、閑散としていた。 「お前……あの向こうで生まれたんだぞ。覚えているか?」  門前の広場にたたずみ、とらの首に顔を寄せると、|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》は肯定するように鳴いた。 「戻ってみたいか?」  六太の問いかけには、分からない、とでも言いたげに喉《のど》を鳴らす音だけが返ってきた。  六太はあの向こうに行ってみたい。改元《かいげん》から四年、もうじき年が明けて五年目になろうとしている。——だが、さすがに自分の命を危険にさらすことの意味は理解していた。行きたいが、行けない。焦土《しょうど》を覆《おお》って見事に立ち現れた黄金の海を見ればなおのこと。  ひとつ息を吐き、とらの手綱《たづな》を引いて宗闕《もん》の間近に向かうと、その脇には高札《こうさつ》が立っている。ここが雁《えん》州国の果て、黄海《こうかい》と雁を結ぶ接点。四年前に立てられた高札は当時のまま、細長い小屋のように壁と屋根に囲まれて、風雨から守られている。その脇には、番人がひとり、所在なげに立っていた。  六太は高札を見上げる。騎獣家禽《きじゅうかきん》の令、または四騎七畜の令と呼ばれる。——曰《いわ》く、騎獣と家畜に妖魔《ようま》を加える、と。尚隆がこの勅令を出したとき、帷湍《いたん》も朱衡《しゅこう》も、そして成笙《せいしょう》も呆《あき》れ返った。その意味を、六太だけが知っている。  まじまじと見上げていたせいだろう、年若い番人が六太の顔を覗《のぞ》き込んできた。 「お前、名前はなんていう?」  六太は番人の顔を見上げた。 「名前? なんで?」 「ああ——いや、いいんだ。お前、どう見ても十五前後にゃ見えないもんな」  六太は頷《うなず》いた。——六太は、なぜ自分が名前を問われたのか知っている。なぜなら、六太自身が靖州|州候《しゅうこう》の権をもって命じたことだからだ。 「誰か探してんの? お尋ね者?」  そうじゃない、と番人が手を振って、六太はわずかに安堵《あんど》する。「尋ね人」がいつの間にか「お尋ね者」になるのは、よくある話だ。 「偉い方々がお探しなんだよ。十五前後で更夜《こうや》ってえ名前の御仁《ごじん》」 「ふうん」  約束は果たされた。だが、いまに至るまでなんの音信もない。死んではいないことだけが、仙籍《せんせき》に消えずに残った「更夜」という文字から知れるだけだ。  番人は笑った。 「恩義でもおありなのかね。——更夜という御仁が現れたら、丁重に県城へお連れしろってさ。もしもお断りになるようなら」  六太は目を見開いて番人の顔を見た。県城へ案内して報告をせよとは六太自身が下した命《めい》だが、もしも、などとは命じてない。 「霄山《しょうざん》に塚墓《つか》があると伝えろって」 「霄山? ——塚墓って、誰の」  さあ、と番人は首をかしげた。 「そこまでは聞かされてないからな。——元州《げんしゅう》との境を越えてすぐのところに碧霄《へきしょう》という天領があってさ。碧霄にある凌雲山《りょううんざん》が禁苑《きんえん》になっていて、それが霄山」 「禁苑……」 「霄山に、ってくらいだから、王にゆかりのある方かね。——その塚墓の主《ぬし》も、更夜って御仁《ごじん》も」       6 「……また新しい楼《ろう》ができたな」  窓からぼんやりと外を見ている男が頬杖《ほおづえ》のまま言った。窓の外は碧霄《へきしょう》の里《まち》の広途《おおどおり》、通りの向かい側に新しく大きな楼ができたところだった。湘玉《しょうぎょく》はそれを見やって笑う。 「碧霄には人が増えたもの。あたしの小さな頃から考えると夢みたい」  湘玉は茶の塊《かたまり》を削《けず》っている。東の慶《けい》国に有名な白端《はくたん》の茶は男が昨夜持ってきたものだ。ずいぶんと高価なもののはずなのに、ぽんと投げだし、飲みたい、と言う。字《あざな》は風漢《ふうかん》、どこで何をしている男なのかは知らない。訪ねてくるのに半年ほどの間が空くから近辺の者ではないだろう。騎獣《きじゅう》も見事だし金離れがいいので金持ちなのだろうが、こんな茶をどうした、という女たちの問いに、くすねてきた、と答えていた。 「……人が増えると妓楼《ぎろう》も増えるわけだ。人間というのは仕方ないな」 「客が利《き》いたふうな口をきくんじゃないの。ぼんやりしてるぐらいなら、これ削《けず》って。良いお茶なんだろうけど、堅くって」  男は頷《うなず》いて湘玉から団茶《だんちゃ》と小刀を受け取る。おとなしく茶を削って膝にのせた茶器の中に落とし始めた。湘玉はそれを笑ってから、窓の外を眺めた。赤い瓦《かわら》に緑の柱。真新しい高楼《こうろう》が続く。 「ほんと、人が増えた。……あたしの小さな頃なんて、このへんはなーんにもない荒れ地だったもの。土を掘ると焼けただれた瓦礫《がれき》やら、白い骨やらが出てきたもんよ。天領なのによ? 信じられる?」  男は笑った。 「雁《えん》は一度滅んだと言うからな。——これくらいでいいのか?」  男に茶器を渡されて、湘玉は軽く口を開けた。 「こんなに誰が飲むの? 削ったお茶はまずくなるのに」 「働かせておいて小言を言うか?」  男が言うので、湘玉は彼をねめつけた。 「あんたはあたしに借金があるのよ。それを忘れないでね?」  閉門ぎりぎりに登楼《とうろう》して、芸妓《げいぎ》を十人ばかりあげての大盤振舞《おおばんぶるまい》、よっぴいてくだらない賭事をやらかして大負けしていた。一夜借りた部屋を湘玉に取られてしまい、しょぼくれていたので、湘玉が自分の私室を貸してやったのだ。 「でも、このお茶を淹《い》れてくれたら、それで帳消しにしてあげてもいいわ」  言うと、男はやれやれと呟《つぶや》いて腰を上げる。もの慣れない手つきでお茶の支度《したく》ををするのを湘玉は笑って見守った。 「風漢は何をしてるひと?」 「さてな」 「ひょっとして、お役人?」 「俺が役人に見えるか?」 「見えないけど。いつも霄山《しょうざん》に登りに来るんでしょ? お役目なんじゃないの? あそこは禁苑《きんえん》とは言っても、うち捨てられた気味の悪いところだもの」 「役目ではないな。どちらかと言うと、物見遊山《ものみゆざん》だ」 「まさか。見るものなんで、何もないわよ」  男は薄く笑う。 「墓があるんだ」  湘玉は瞬《またた》いた。 「……聞いたことがあるわ。霄山には、元伯《げんぱく》のお墓があるって。ずいぶんと前の令尹《れいいん》が曝《さら》されているんでしょ?」 「曝《さら》す?」 「ええ。大逆《たいぎゃく》を起こしたのよ。それで天領に亡骸《なきがら》が曝されているんだって」  莫迦《ばか》な、と男は笑った。 「単に墓があるだけだ。第一、人目につかぬ場所に罪人を曝しても意味がなかろう」 「あら……それはそうね。でも、元伯《げんぱく》のお墓なんでしょ? 墓を訪ねるってことは、風漢は元伯ゆかりの人?」 「あながち無縁でもないというところかな」 「ということは、あんたも悪党なのね。元伯って、とんでもない悪人だったんでしょ?」  男は声をあげて笑う。 「俺はともかく、斡由《あつゆ》もそこまで言われては立つ瀬がなかろう」 「斡由——元伯? でも、講談ではそうよ。元侯《げんこう》を殺して元州を好き勝手にして、あげくに謀反《むほん》を起こしたの」 「なるほど、巷間《こうかん》に膾炙《かいしゃ》するとは、そういうことなのかもしれんな」  男は湯飲みを抱えて窓際に戻る。淡々と雑路を見下ろした。 「……斡由は元州候の息子だった。梟王《きょうおう》の時代に令尹となって元侯を支えたが、父親のほうは腑抜《ふぬ》けでな。梟王は戦乱や天災と同種の災厄だった。父親はその災厄を乗り切れる器ではなかった。斡由はその父親を放逐《ほうちく》して、自ら元州を束ねた。州候から位を奪ったということだが、父親が梟王に荷担《かたん》して民を虐《しいた》げたことを思えば、斡由は災厄を取り除いたのだとも言える」 「見てきたように言うのねえ。——でも、罪は罪でしょ?」 「もちろん、そうだ。——だが、その一方でいまひとり、同じく腑抜けた父親を持った男がいた。災厄が近づいていた。父親は災厄を乗り切れる器ではなかったし、そいつもそれを分かっていた。こちらのほうは罪を犯すことなく踏み止まったが、結果、災厄に呑《の》まれて所領は滅んだ」  男はわずかに苦笑する。どこか自嘲《じちょう》するふうだった。 「事実上、父親を殺して災厄を乗り切り、民を生かした斡由と、罪人になることを恐れて父親を生かし、民を死なせたそいつと、果たしてどちらがましだったのだろうな」 「……斡由、ではないと思うわ。だって、そうやって罪を恐れない人だから、結局、大逆なんて大罪を犯したわけでしょ?」 「そうかな……」  男は湯飲みを覗《のぞ》き込む。 「俺は斡由をよく知るわけではないが……。俺には斡由が、領主でない己には一文の値打ちもないのだと、思い定めていたように見える。それも必ず良き領主でなければならぬ、と。斡由は謀反《むほん》を起こしたが、そもそも玉座《ぎょくざ》が欲しかったわけではあるまい。元侯は梟王の任じたもの、自分はその令尹にすぎぬ。自分の上に新王があれば、じきに領主であり続けることができなくなる、だから王の上に立たねばならなかったのではないか」 「……分からないわ」 「俺にも分からん。だが、斡由は良き領主でありたかったのだと思う。そう誉《ほ》めそやされる自分でありたかった。そして、斡由の中には矛盾がなかった。——自分の望みに対して、迷いがなかったというべきか。だからこそ、罪人になることを恐れなかった」 「要は、褒めてほしかっただけなんじゃないの?」  湘玉の問いに、男は振り返る。 「それではいかんか? 斡由は美名《びめい》を望んだが、それ自体は悪いことではなかろう。美名を求めて善行《ぜんこう》を民に施《ほどこ》す。内実はどうであれ、民は潤うのだし、見事な君主だと民が褒めれば斡由も潤う」 「それはそうだけど」 「時折、斡由が最後まで美名を貫けたなら、と思わんでもない。実際のところ、斡由は美名より先に領主としての己を守らねばならなくなったが、もしも美名だけを求めてそれを貫けたなら、王としてこれほどの人材はなかったかもしれぬ」  湘玉は目を見開いた。 「とんでもないことを言うのね」 「そうか?」 「だって、すでに玉座に王がいたから大逆なんでしょ? 貫けなかったところが王の器に足りなかったことじゃないの? そうでなくても、斡由には何かが欠けていたのよ。そうでなかったら、台輔《たいほ》は斡由を王に選んでいたはずだもの」  ああ、と男は笑う。 「なるほどな……」       7  霄山《しょうざん》は荒涼《こうりょう》とした山だった。ひからびた苔《こけ》をまとわりつかせた岩が折り重なるばかり、その岩ももろく、足をかけると容易《ようい》に崩れる。飛行する乗騎《じょうき》がなければ、登攀《とうはん》することはできないだろう。 「雨が降ったら、とらがいても登れないよなあ」  六太《ろくた》は不安定に積み重なった岩を見上げ、ひとりごちた。風が強く、突風が吹くたびにからからと小石が落ちる音がする。これでまとまった雨が降れば、ひとたまりもないだろう。おそらくこの山は、雨期のたびに崩れているのに違いない。  霄山の主峰《しゅほう》の高いところに、かろうじて形を保《たも》っている小さな堂宇《どう》の甍《いらか》が見えた。凌雲山《りょううんざん》の通例からすると、麓《ふもと》からあの堂宇まで隧道《すいどう》が通っているはずだが、肝心の入り口が埋まってしまったのか見あたらなかった。仕方なく、とらを頼みに登っている。  突風を避け、落石を警戒しながら堂宇まで登ると、建物は無残なありさまだった。柱は傾き、歪《ゆが》んだ屋根からは瓦《かわら》がこぼれ落ちている。六太とて天領の全てを知るわけではないが、霄山という地名に聞き覚えすらなかったぐらいだから、うち捨てられて久しいのだろう。とりたてて産物もなく、何かに使われているというわけでもないのに違いない。ひょっとしたら、もともと陵墓《りょうぼ》の山だったのかもしれなかった。  堂宇の周囲を取り巻く園林《ていえん》のほうも、見る影もなかった。崩落した岩が飛び込んで、至るところに転がっている。かろうじて林の体裁を保っている松の中に、小さな四阿があって、こればかりは周囲を松の枝と根に守られているせいか、とりあえずまだ真っすぐに建っていた。  六太は鞍《くら》を降り、とらをそのへんに待たせて松の中に分け入る。四阿《あずまや》の側に、たまが寝そべっているのが見えて、軽く笑った。 「——よう」  喉《のど》を鳴らす|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を撫《な》でて、六太は四阿の中を覗《のぞ》き込む。四阿の中は無人だったが、入り口の石段に腰を降ろして小振りの甕《かめ》を抱え込んでいる姿が見えた。 「ひとりで酒盛《さかも》りかあ?」  六太が声をかけると、尚隆《しょうりゅう》は振り返る。さして驚いたふうもなく、よう、と暢気《のんき》に手を挙げた。 「なんで六太が、こんなところにおるんだ」 「なんで、って訊《き》きたいのは、おれのほうだって。高札《こうさつ》の番人に妙な伝言を命じたの、お前だろ」  戸口に近づいて尚隆の脇に腰を降ろす。四阿の前には歪《ゆが》んでひび割れた石畳が残っていた。院子《なかにわ》程度の広さのそこに、石を刻んだ榻《ながいす》や卓子《つくえ》が形をとどめて据えられていたが、石畳の目地や亀裂には秋草が生い茂り、いかにも廃墟然としている。 「こういうとこで呑《の》んでて楽しいか?」  尚隆は笑う。 「少なくとも、朱衡《しゅこう》や帷端《いたん》の怒鳴り声は聞こえんからな」 「それもそーか」  石畳の途切れた先、松の根元に塚がひとつ見えた。こちらでは塚墓《つか》には梓《あずさ》を植えて墓標に代えるが、塚の上には石がひとつのっていて、それがつい最前、水を撒《ま》かれたように濡れていた。 「——あれ、斡由《あつゆ》?」 「まあな」 「あれ、雨期の前だったんだよな。ちょうど今頃——いや、もう少し後か」  六太は呟《つぶや》いて塚を見つめたまま、ほんのわずか記憶を追う。すでに細部は風化していこうとしていた。この山が雨期のたびに崩れているように、この記憶も雨期のたびに失われていくのだろう。そのうち思い出そうにも思い出せなくなるのかもしれなかった。 「なるほどなあ。約束があるっていうから、おれはまた、もっと下世話な約束なんだと思ってたぜ。ちょうど今頃だった、と言うには少し早いけど、この山は雨期に入ったら登れないよなあ。それで雨が降り出す前に、抜け出したかったわけだ」  ちょっと揶揄《やゆ》をこめて尚隆を見上げたが、当人は至って平然としている。 「なんの話だかな」  六太は笑って塚に目を戻した。 「墓を作ってやるほど、お前が斡由に好意的だったとは知らなかったな」 「そのくらいはしてやってもいいだろう。斡由は良い官僚を残してくれた」  六太は頷《うなず》く。実際のところ、元《げん》州の官吏《かんり》は志高く、有能だった。斡由の掲げた旗の虚実はともかく、旗を慕って集まった官僚たちには嘘《うそ》がなかった。その後、朝廷を改める際に、どれほど役に立ったか分からない。 「——もっとも、俺に弔《とむら》われたのでは、斡由も浮かばれまいが」 「それを分かってて差し向かいで酒盛《さかも》りか? それってほとんど嫌がらせだぞ」 「なに、たまには斡由も恨《うら》みごとを言う相手が欲しかろう」 「そのうち本当に化けて出たりして」 「出るぞ」  尚隆があっさり言って、六太は少し身を引いた。 「またまた……」 「ここは昔、陵墓《りょうぼ》だったようだな。それで引き寄せるのか、斡由に限らず、うじゃうじゃ死人が沸《わ》いて出る」 「うじゃうじゃって」 「古いのやら、新しいのやら。俺に恨みごとを言いたい連中が集まってくるんだ」  だから、と尚隆は笑う。 「日が落ちる前に下りたほうがいい」  六太はその笑顔を、ほんのわずか見つめ、そして頷《うなず》いた。 「……そうするわ。おれ、泣きごとや恨みごとって嫌いだし」 「ではな」  ああ、と手を挙げて立ち上がり、六太は四阿《あずまや》を回り込む。たまの頭をひとつ撫《な》で、とらのところに戻った。とらは六太と四阿を不思議そうに見比べたが、六太は構わず手綱《たづな》を取る。軽く※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の首を叩いた。 「……尚隆はここでは、ひとりになりたいんだ。放っとこうや」       8 「連中はまだ見つからんのか!」  帷端《いたん》の怒鳴り声に、成笙《せいしょう》は息を吐いた。 「皆目《かいもく》、どこに向かったのやら」 「連中は|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を連れているんだぞ! 関弓《かんきゅう》を出て西へ向かったことも分かっている。それでどうして行く先ひとつ分からんのだ!」 「それだけの手がかりで、どうしろと言うんだ」 「だいたい、なんだって即座に後を追わなかったんだ」 「相手は※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞だぞ。追って追いつけるものか」 「その※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は夏官《かかん》の厩舎《うまや》に預けてあった。どうしてそれを、連中が持ち逃げできたのか、教えてもらおうじゃないか」 「天官《てんかん》の閹人《もんばん》が迂闊《うかつ》だったからじゃないのか」  剣呑《けんのん》な空気を漂わせたふたりの間に、朱衡《しゅこう》は下官《げかん》から受け取った茶器を置く。 「およしなさい、大人げのない。あなた方が喧嘩《けんか》をしてどうするんです」  帷端は朱衡に矛先《ほこさき》を向ける。 「なんだってお前は、そうも落ち着いているんだ」  成笙もまた頷《うなず》いて、官府《かんふ》の自室で平然と書面の山と対峙《たいじ》している朱衡を眺める。 「まったくだ」 「落ち着くもなにも。——こうなることは見えていたじゃないですか。あの方々が閉じこめられて、おとなしくしているものですか。行くなと言えば、意地でも行く方だってことは、とっくに分かっていたでしょう?」  帷端は卓子《つくえ》を殴りつける。 「そうとも。——でもって、行ってもいいと言えば、本当に好き勝手に出て行くんだ、あいつらは! いったい、どうすりゃ奴らを、おとなしく閉じこめておけるんだ!」  ですから、と朱衡は笑う。 「そういうのを、処置なし、と言うんですよ」  帷端は頭を抱え、成笙は蟀谷《こめかみ》を押さえた。朱衡は笑う。 「とりあえず、あまりにも無軌道が過ぎれば、朝寝《あさね》もしていられない破目《はめ》になることぐらいは分かったでしょう。ふた月、我慢してくれたおかげで、ずいぶんと仕事も片づきましたし。それで良しとするんですね」  帷端は恨《うら》めしく朱衡の澄ました横顔をねめつけた。 「要するに、お前は、端《はな》から諦めていたわけか?」  まさか、と朱衡は心外そうにする。 「主上《しゅじょう》と台輔《たいほ》の好きなようにさせてあげる気はありませんよ。だからあなたがたに協力したじゃありませんか」 「お前な……」 「わたしはただ、閉じこめることはできない、と言っているんです。品行方正な王と宰輔《さいほ》など、あの方々に望むだけ無駄というものです。とりあえず今回は、無軌道が過ぎれば鬱陶《うっとう》しいことになると分かってもらえれば、それで結構。そうやっておいおい、破目を外しすぎないよう、仕込んでいくだけのことで」  成笙は唸《うな》った。 「あいつらは、たまや、とら並みか?」 「それは※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞に対して失礼でしょう。家畜並み、とおっしゃい」  帷湍は大きく息を吐く。 「お前……それは、無茶苦茶きついぞ」 「おや、どこか違いましたか?」  違わないけどな、と帷湍は口の中で呟《つぶや》いた。朝議はすっぽかす、すぐに行方をくらます。少し目を離せば他国にまで入り込んで、ろくでもないことをする。そのくせ、突然、外殿の外にまで現れては、官にとんでもない要求を突きつけていくのだ。そのたびに右往左往させられる諸官の苦労は並大抵ではない。——確かに、しつけの悪い家畜のようなものなのかもしれない。 「そのうち帰ってきますでしょう。ここしか帰る場所はないんですから」 「だといいがな」  帷湍が吐き捨てると、朱衡はおや、と書面から顔を上げた。 「あなたには玄英宮《げんえいきゅう》より他に帰る場所があったんですか」  は、と瞬《またた》いた帷湍に、朱衡は笑う。 「それは羨《うらや》ましい。帷湍よりずっと年若のわたしでさえ、ここより他に帰る場所はないというのに。なかなか隅に置けませんね」 「いや、それは」  言葉に詰まった帷湍を笑って、朱衡は窓の外を見た。見渡す限りの雲海、小島の姿でさえ見あたらない。 「陸のない大海の中に浮かんだ船のようなものです、この宮城は。船を嫌って飛び出したところで、辿り着く岸辺はどこにもない」  そうかもしれん、と呟《つぶや》いたのは成笙だった。 「知人はおろか、生まれた里さえもうないからな。下界によしみを作ったところで、数十年もしないうちによしみのほうが去っていく」  船を降りるには仙籍《せんせき》を返上して野に下るしかないが、王や麒麟《きりん》にはそれすらも許されない。ましてや二人は胎果《たいか》だ。 「——なるほど、寄《よ》る辺《べ》を失った者の吹《ふ》き溜《だ》まりか、ここは」 「そこがよくできている、と言うべきでしょうね。わたしたちには、ここしか居場所がない。この船を走らせるより他に、すべきこともない……」 「目指す陸地もないのに、か」  帷湍が腕を組むと、朱衡は書面に視線を戻した。 「どこに辿り着くかは問題ではないでしょう。そもそも辿り着くべき場所があるわけでなし。昨日より今日、今日より明日と前に進むだけのことですから」 「確かにな……」 「まあ、それも船が沈むまでのことです」 「いつまで保《も》つかな。あの連中、沈むときには速そうだ」  帷湍が言うと、成笙は深く頷《うなず》く。 「よくも今まで保ったと言うべきだろう。なにしろあちこちに穴が開いていて、水が漏《も》らぬよう官吏《かんり》が総出で穴を押さえているのだからな」  まったくだ、と帷湍は苦笑した。 「ところが、そういう船に限って驚くほどよく保ったりするんだ」 「保ちますかねえ……」 「それは無理だろう」 「どうだかな」  三者三様、問いかけるように視線を向けた雲海には、島影はおろか行き交う鳥の影すらない。下界の色を映して複雑な色を湛えたそこに、飽きることなく波は打ち寄せている。 [#地付き](『ドラマCD 東の海神 西の滄海』付録) [#改ページ] [#ページの左右中央]   丕緒《ひしょ》の鳥 [#改ページ]       1 その山は天地を貫く一本の柱だった。限りなく垂直に近い角度で聳《そび》える峰は、穂先を上にして立てた筆のよう、その筆がぎっしりと束ねられて巨大な山塊を形作る。山頂は実際に雲を貫いていた。雲の下にも尖った峰が林立し、その穂先は小波を描きつつ急激に基底部に向かって落ち込んでいった。麓は広大な斜面だった。そこには階段状に街が広がっている。——世界東方、慶《けい》国の首都となる堯天《ぎょうてん》である。  山はそれ自体が一つの王宮だった。山頂には王と高官のみが住まう燕朝《えんちょう》が広がる。燕朝と堯天の間には、偽りなく天地ほどの落差があった。しかも両者の間は透明な海で完全に隔絶されている。地上から見上げてもそこに海があることは分からない。山頂に打ち寄せた波が、まとわりつく白い雲として見えるのみだった。その雲の下、群がる峰の間には下級宮の住まう治朝《じちょう》が広がる。白茶けた岩棚が巨大な山塊にしがみつくようにして連なり、そこに無数の府第《やくしょ》と官邸が建ち並んでいた。  その南西には夏官府が広がる。四角く院子《なかにわ》を囲むように並んだ堂屋《むね》が、高さを変えつつ縦横に連結されて広大な府第を形成していた。その一郭に、射鳥氏《せきちょうし》の府署《ぶしょ》はある。丕緒《ひしょ》が新たに任じられた射鳥氏に呼び出され、邸からそこへ出向いたのは、慶の国暦で予青《よせい》七年、七月の末のことだった。  取り次ぎに出てきた下官は、丕緒を府署の奥まった堂屋に通した。堂《ひろま》は中空に張り出した広い露台に面している。石を刻んだ欄干の向こうは千尋《ちひろ》の崖、露台の隅には柳の古木が立って蓬髪《ほうはつ》のように垂れた枝を欄干に打ち掛けていた。その下には一羽の鷺《さぎ》に似た鳥が蹲《うずくま》っている。欄干に留まった鳥は、ほっそりと長い首を谷底へと向け、物思うように微動だにしない。  ——何を見ているのか、と丕緒は思った。  眠っているとも思えない。下界でも眺めているのだろうか。丕緒が所在なく佇んだ場所からは見えないが、鳥の眼下には下界の景色が広がっているはずだ。暑気と閉塞に倦《う》んだ堯天の街と、街をくるみ込む疲弊した山野が。  ——荒廃しか見えんだろう。  丕緒は思ったが、なぜだか鳥は、その荒廃こそを見詰めているのだ、という気がしてならなかった。その姿が何かを憂えているように見えるせいだろうか。  それは、不思議に一人の女を思い起こさせた。およそ鷺に似通ったところなど持ち合わせてはいなかったが、よくああして谷間の景色を眺めていた。ただし、女のほうには何かを憂えている様子など欠片《かけら》ほどもなかったが。そもそも彼女は下界など、端から見ようともしなかった。  ——荒れ果てた下界なんか、眺めたって詰まらないでしょ。  女はそう言って笑って、梨の実を投げた。下界にも荒廃にも興味はない、惨いものなど見たくないと、あっけらかんと言い放った。  なのになぜ、あの鳥と重なるように思うのだろうか。——思いながら鳥を眺めていると、せかせかとした跫音《あしおと》がした。それに驚いたのか、鳥が飛び立つ。振り返れば、堂に貧相な男が入ってくるところだった。今日まで顔を合わせたことはないが、これが新しい射鳥氏の遂良《すいりょう》だろう。そう察して丕緒は跪《ひざまず》き、とりあえず一礼して男を迎える。 「持たせたようだな。——よく来てくれた」  男は両手を広げて歓迎の意を示した。歳の頃は五十過ぎ、青黒く瘠《や》せた顔には取って付けたような満面の笑みが浮かんでいる。 「そなたが羅氏《らし》の丕緒だな? いやいや、気にせず立ってくれ。——そこへ」  手先で示しながら、傍らの方卓《つくえ》を示した。自らも椅子に腰を下ろしながら、丕緒にも坐るよう勧める。珍しいこともあるものだ、と丕緒は心の中で思った。方卓を挟んで並べられた二つの椅子は、本来、主と客の席だ。丕緒はもちろん客などではあり得ない。 「遠慮することはない、坐るがいい。——真っ先に会おうと思っていたのだが、いろいろと雑用が多くてな。やっと時間が取れたので、そなたの許を訪ねようかとも思ったが、生憎《あいにく》そこまでの暇が無い。なので呼び立ててしまったのだが、急のことにもかかわらずよく来てくれた。済まないな」  遂良は阿《おもね》るかのように丁重だった。射鳥氏は羅氏を掌《つかさど》る。用があれば呼び出して当たり前なのだし、丕緒には拒む権利もない。呼び出したからと言って詫び、来てくれたと言って感謝する必要などないはずだった。 「坐るがいい。——これ」  遂良は背後の下官を振り返った。下官は酒器を捧げ待っている。遂良に呼ばれて、それを方卓に並べた。これまた慣例ではあり得ない待遇だった。  重ねて坐るよう言い、酒杯を押し出すように勧めながら遂良は身を乗り出した。 「なんでもそなたは、羅氏がたいそう長いとか。悧《り》王の時代から羅氏を務めておると聞いたが、真か」  丕緒はこれには、頷くだけで答えた。遂良は「そうか」と唸り、丕緒をしみじみと見た。 「私よりも年若に見えるが、遥かに年上ということになるのだな。——いや、私が官吏になって仙籍《せんせき》に入ったのは一昨年のことでな。仙籍に入れば歳を敢ることもないと言うし、それは重々承知しているのだが、どうも慣れない。そなた、実年齢は幾つになる?」 「さて——覚えておりません」  これは事実だった。丕緒が官吏として登用され、仙籍に入ったのは悧王の時代、それも悧王が即位して十年かそこらのことだったと記憶している。すると官吏になってから、すでに百数十年は越えていることになるだろうか。 「覚えられないほど長いか。大したものだな。なるほど、羅氏中の羅氏と呼ぶわけだ。数々の逸話を残しているとも聞いておる。先王——予《よ》王が即位なされた際には、王から直々にお言葉を賜ったとか」  丕緒は薄く笑った。人の噂というものは、体よく歪んでいくものだ。  丕緒の笑みを誤解したのか、遂良は両手を叩いて摺り合わせ、「そうかそうか」と大いに破顔する。 「その腕を揮《ふる》ってもらわねばならない」  そう言ってから、遂良は再び顔を寄せ、声を低めた。 「——近々、新王が登極《とうきょく》なさる」  丕緒は遂良の眼を見返した。遂良は頷く。 「ついに偽王《ぎおう》を下されたそうだ」 「……偽王だったのですか、やはり」  丕緒は問うた。  丕緒の生まれ育ったこの国——慶には今、国を統《す》べる王がいない。先の王は在位わずかで斃《たお》れ、後、時を措かずにその妹、舒栄《じょえい》が立ったが、これは王を騙《かた》った偽王らしいという説が王宮では有力だった。  そもそも王は国の宰相たる宰輔《さいほ》が選ぶものだ。宰輔の本性は麒麟で、天意を聴いて天命ある者を玉座に据える、という。何者であろうと麒麟の選定なしに玉座に就くことは許されず、天命のない王は偽王と呼ばれる。  舒栄が真実、王なのか、それとも偽王にすぎないのか——これを確実に知る者は宰輔しかいない。にもかかわらず、肝心の宰輔はこのとき国にいなかった。予王|崩御《ほうぎょ》の前に体調をくずし、崩《ほう》じてからは麒麟の生国とも言える蓬山《ほうざん》に戻っていたのだ。宰輔が戻ってくることがないまま舒栄が立ち、王宮に入れよと求めたが、新王かどうかを確認する術がない。衆議の末、国官たちはこれを拒んだ。  実際には、丕緒はそれらの事情について正確なところを知るわけではない。王宮に住まう国官の端くれだが、丕緒の地位は国の大事に関与できるほど高くないのだ。そもそも羅氏は国政とはほとんど関係のない官だった。所属こそは軍事を掌る夏官だが、軍にも戦にも全く関係のない射儀《しゃぎ》を掌る。祝い事や賓客があったときなどの祭礼に際し、弓を射る儀式がそれだが、その射儀で的にする陶鵲《とうしゃく》を射鳥氏の指示を受けて誂《あつら》えることが職務だった。身分から言っても職務から言っても、国の重大事など耳に入るはずもない。それらは全て王宮の上のほう——文字通り雲の上での話で、なので漏れ聞こえてくる噂話として経緯を承知しているにすぎなかった。  正しく天命を得て麒麟が選んだ王が立てば、王宮の深部で数々の奇瑞《きずい》が起こるものだ、という。にもかかわらず、その奇瑞がない——ゆえにどうやら偽王らしい、これが雲の上の人々の判断だったようだ。王宮に入れよと求める舒栄に対し、これを拒んで王宮を閉ざした。怒《いか》った舒栄は慶国北方に陣営を構え、官吏が王宮を私物化して王たる自分を宮城に入れない、と糾弾の声を上げたと聞く。 「しかし、宰輔が御前におられるという噂も聞きましたが」  どうやら宰輔が舒栄の陣営にいるらしい——そういう噂が流れて、王宮は一時、恐慌に陥った。舒栄が真実、新しい王なら、正当な王を王宮から閉め出した官吏は責任を問われる。正式に新王が王宮に入ったとき、厳罰に処せられることは必至だ。浮き足だった官吏が王宮を逃げ出して舒栄の陣営に参じた。遂良の前の射鳥氏も、そうやって消えた官吏の一人だった。 「あったな。それを聞いて各州が雪崩を打って舒栄の許に下ったが、やはり偽王だったという話だから、おそらくは何かの間違いだったのだろう。天を信じて踏みとどまった我らの労が報われる時が来た、ということだ」  遂良は感慨深げに言ったが、果たしてそれはどの覚悟があったかどうか。偽王らしいという噂はあった。正当な王が立ってこれと戦っている、とも聞いたが、王宮から閉め出した以上、舒栄が新王であってもらっては困る——これが王宮に残った高官たちの本音だろう。 「——もっとも、女王だそうだがな」  遂良は口許を歪めた。 「女王……なのですか。また?」  だそうだ、と遂良の返答は苦々しげだった。無理もない。この国は女王と折り合いが悪いのだ。少なくともここ三代、無能な女王の時代が続いている。 「まあ、女王であろうと、天に認められた正当な王には違いない。——新王はじきに宰輔と共に王宮にお入りになるだろう。そうすればすぐに即位の礼だ。大至急、大射《たいしゃ》の準備をしてもらいたい」  大射とは国家の重大な祭祀吉礼に際して催される射儀を特に言う。射儀はそもそも鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式だった。この的が陶鵲で、宴席で催される燕射《えんしゃ》は、単純に矢が当たった陶鵲の数を競って喜ぶという他愛ないものだが、大射ともなれば規模も違えば目的も違う。大射では、射損じることは不吉とされ、矢は必ず当たらねばならなかった。射手に技量が要求されることはもちろんだが、陶鵲のほうも当てやすいように作る。そればかりでなく、それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕けるよう技巧の限りを尽くした。果ては砕ける音を使って楽を奏でることまでがなされる。——楽を奏でる陶鵲というのは、丕緒も過去に作ったことがある。正確に陶鵲を投げ上げるため小山のような投鵠機を作り、射手には名うての名人ばかりを取り揃えた。打ち出された陶鵲を順次射ていくと、砕けて立てる音が連なって楽になる。大編成の楽団が奏じる雅楽なみの音を鳴らすため、三百人の射手を居並ばせたものだ。御前の廷《にわ》を色とりどりの陶鵲が舞う。舞ったそれを射ていくと、大輪の花が開くように砕け、磬《けい》——石や玉で作った楽器——のような音色がして、豊かな楽曲が流れる。音程を揃えようとするとどうしても芳香を持たせることができず、足りない香りを補うため、周囲には六千鉢の枳殻《からたち》を用意させた。——昔の話だ。 「また逸話になって残るような射儀を——のう?」  遂良は言って丕緒の顔を舐めるように見上げた。 「お前も腕が鳴るであろう?」 「さて……どうでしょう」 「私に向かってまで謙遜することはない。——なにしろ新王が登極なされて初めての射儀だ。見事な射儀をお目にかければ、どんなにかお喜びになるに違いない。主上《しゅじょう》がお喜びになれば、夏官も大いに面目が立つ。お褒めの言葉だけではなく、なにがしかの褒美もあるやも知れん。そうなれば夏官が総じてそなたに感謝し、そなたを誇りに思うことだろう」  そういうことか、と丕緒は心中で失笑した。もしも予王の例のように、新王から直々に褒め言葉を賜るようなことがあれば、射儀に携わった全ての官の未来が拓けるだろう——そう期待しての、この持て成しなのだと理解した。 「それで、そのお褒めをいただくための腹案はおありでしょうか」 丕緒が問うと、遂良がぴたりと口を噤《つぐ》んだ。怪計そうに眉を寄せ、丕緒の顔を窺《うかが》い見る。 「——腹案?」 「どのような陶鵲をお作りすれば良いのか、指示をいただきませんことには。もっとも、実際に陶鵲を作るのは冬官《とうかん》でございますが」  本来、射儀を企図するのは射鳥氏の役割だ。どのような射儀にするのか思案し、羅氏に命じて陶鵲を用意させる。羅氏は冬官府の冬匠《とうしょう》——特に陶鵲を作る専任の工匠である羅人《らじん》を指揮して実際にそれを作らせる。 「そなたは企図から何もかもやってのけると聞いたぞ」 「とんでもございません」 「そんなはずはない。前の射鳥氏は、大射と燕射の区別すらつかなかったという話だ」  それは事実だ。前の射鳥氏だけではない。丕緒が最初に仕えた射鳥氏を除き、歴代の射鳥氏全てがそうだった。「羅氏中の羅氏」が勝手に何もかもやるから、位に坐っているだけでいい。旨味はないが楽な役目だ——遂良もまた、そう言われてやってきたのだろう。  官吏には、下から業績を積み上げて位を昇っていく者と、高官の強い引きを得て上から降りてくる者がいる。遂良は確実に後者だった。 「射鳥氏があまりに無能でいらっしやれば、私がお助けするしかありません。そういうこともなかったとは申しませんが」  あからさまな皮肉に、遂良は一瞬、不快そうな表情を浮かべたが、すぐに貼り付けたような笑顔を取り戻した。 「なにぶん私は射鳥氏に任じられたばかりだからな。もちろん、役目は分かっているし、至急覚えるつもりでいるが、今回の大射には間に合うまい。無理をして不調法があっても申し訳ない。今回はそなたに任せたほうが良かろう」 「お助けしたい気持ちは山々ですが、なにぶん長いあいだ羅氏を務めて参りましたので、あいにく思案が枯れました。実を言えば、そろそろ役目を変えていただくか、お暇をいただきたいと思っていたところです」 「いや、そんな……」  遂良はうろたえたように呟き、すぐに膝を打って身を乗り出した。 「予王にお褒めをいただいたという件《くだん》の陶鵲はどうだ? それに手を加えてさらに華やかにすればよかろう」 「まさか」  丕緒は苦笑した。遂良はよほど「件の陶鵲」が気に入っているようだが、あいにく、予王の例のように新王から言葉を賜れば、遂良は得たばかりの官位を失うことになりかねない。真実を知らないということは幸せなことだ。 「なぜだ? 数を増やすなり色を変えるなりして——」 丕緒は素っ気なく首を横に振った。 「陶鵲は冬匠が作るものです。件の陶鵲を作った冬匠がもうおりません」 「同じものを作らせればいい。書き付けか図会《えず》が残っておろうが」 「さあ、どうでしょう。残っておりましても、現在の冬匠で作ることができますかどうか。何より時間がございません」  蓬山で天勅《てんちょく》を受け、正式に即位してから大射まで、過去の例からすれば一月というところか。 「それを指導して何とかするのが羅氏の役目だ」  遂良はついに不快を露わにした。 「登極したばかりの王の前で、無様な射儀は許されぬ。必ず新王にお喜びいただけるような陶鵲を用意せよ」       2  怒って堂《ひろま》を出ていった射鳥氏《せきちょうし》の、遠ざかる跫音《あしおと》が消えてから丕緒《ひしょ》はその場を辞した。困惑したような下官の視線を受けながら堂屋《むね》を出ると、夏の陽は大きく傾いていた。自身の府署《ぶしょ》には立ち寄らず、治朝《じちょう》を東西に貫く大緯《おおどおり》を辿って西へと向かった。  治朝はほぼ南面する。その中央の最も奥には、山の斜面を剔《えぐ》るようにして巨大な門が聳えていた。これが路門《ろもん》、雲の上——天上に広がる燕朝《えんちょう》に続く唯一の門戸だった。路門を通って天上に足を踏み入れることのできる者は限られる。それは王宮に仕える国官といえども例外ではなかった。治朝と堯天《ぎょうてん》の間にも天地に匹敵する距離があったが、天上の世界から閉め出されている点では、どちらも変わりがなかった。  丕緒は路門を一瞥し、さらに大緯を西へ、冬官《とうかん》府へと向かった。冬官府は中心となる府第《やくしょ》を核に、大小の工舎《こうしゃ》が無数に周囲を取り囲む。丕緒は複雑に入り組んだ工舎の間を抜けていった。通い慣れた道だが、このところ足が遠のいていた。周囲の高い墻壁《へい》越しに漏れてくる物音や匂いが懐かしい。槌の音、灼けた鉄の匂い、一つ一つ確認しながら突き当たりの門を潜った。  工舎は正確には冬官府に属する府署であり、府署の中心となる匠舎《しょうしゃ》は基本的に院子《なかにわ》を囲んだ四つの堂屋からなる。それに隣接する形で規模は様々に工舎を擁す。ほとんどの場合、匠舎よりも工舎のほうが格段に大きい。ゆえに冬官府の府署を一般に工舎と呼ぶのだが、丕緒が訪れたこの匠舎には、そのうえさらに西の堂屋がなかった。院子の西は断ち切られたように断崖をなし、その先は二つの巨大な峰に挟まれた峡谷だった。  白茶けた峰が左右の視界を遮《さえぎ》り、壁のように立ち塞がっている。峰の間の上方には夕映えの空が覗き、その下は遥か遠くに霞む山々、薄藍に連なる山の稜線に向けて陽は落ちようとしていた。さらに下にはかつて、堯天の街が見えていた。今はそれが、こんもりとした緑の森に遮られている。院子の足許から続く斜面は一面、梨の木で覆われていた。  蕭蘭《しょうらん》の植えた梨木《やまなし》だ。下界など見たくないと言って、蕭蘭は倦《あ》かずにこの院子から梨の実を投げた。運良く根付いた梨木が大樹に育ってさらに実を落とし、そうして増えた梨木が谷底の斜面を覆っている。春にはそれが真っ白な花を付けた。純白の梨雲《りうん》が谷間に懸かり、それは見事な光景だった。  眼を細めてそれを見ている蕭蘭の姿が思い出される。やはりそれは、不思議にどこか射鳥氏の露台で見た、あの鳥の姿を彷彿とさせた。相通じるものなど何もないのに。  考え込んでいると、背後から驚いたような声がした。 「丕緒さま——」  北の堂屋から姿を現した若者が、くしゃりと笑って駆け寄ってくる。 「丕緒さま、お久しぶりです」 「無沙汰をしたな。元気だったか」  はい、と頷いた彼がこの匠舎の主だった。陶鵲《とうしゃく》を作る専門の工匠、羅人《らじん》の長だ。羅人はその下に所属する工舎に数十人の工手《しょくにん》を抱える。工手の長を師匠《ししょう》と言い、羅人府の師匠が羅人だった。いかにも繊細な細工に向いた柔な物腰の若者で、その名を青江《せいこう》という。 「どうぞ——どうぞ、お入りください」  青江は丕緒の手を引かんばかりだった。今にも泣き出しそうにさえ見える。実のところ、丕緒はもう一年近く、この羅人府を訪れていなかった。かつては、ほとんどここに住んでいるようなものだったのに。羅人府を訪れないばかりでなく、そもそも丕緒は官邸を出ることすらしていなかった。王が玉座にいなければ射儀は行なわれることがない。それをいいことに羅氏の府署にも立ち寄らず、ひたすら自身の邸に引き籠もって過ごした。この春には青江から、梨雲が懸かったので見に来て欲しいと使いがあったが、それすらも断った。一向に姿を見せない丕緒の身を案じ、梨の花にこと寄せて使いをくれたことは了解していた。丕緒の拒絶に青江が傷つくだろうことも分かっていたが、どうしてもその気になれなかった。  久々に足を踏み入れた堂屋の中は、以前と少しも変わっていなかった。所狭しと並べられた卓《つくえ》と棚、雑多な道具と山のような書き付けと図会《ずえ》。一年前もこうだったし、それ以前——蕭蘭が羅人だった頃もこうだった。丕緒が羅氏として初めて足を踏み入れたときから、些《いささ》かも変わらない。  感慨深く見廻していると、青江が顔を赤らめた。 「相変わらず取り散らかしたままで……」 「こんなものだろう。ここがきちんと片付いているところなど、見た記憶がない」  済みません、と呟いて青江が慌てて掻き集めているのは、古い書き付けや図会だった。卓の上に散らばっているのは青江の作だろうか。どれも古い陶鵲に見える。丕緒の視線に気付いたのか、青江は恥じ入ったように俯《うつむ》いた。 「あの……勉強になるかと思って、古い陶鵲を再現していたんです」  そうか、と丕緒は呟いた。丕緒が指示を与えないから、青江はすべきことがない。 「熱心で結構なことだが、しばらくそれは諦めてもらわねばな」  青江は、ぱっと顔を上げて喜色を浮かべた。 「では、陶鵲をお作りするのですね?」 「作らねばならん。近々|大射《たいしゃ》があるそうだ」  驚いたようにする青江に、丕緒は射鳥氏から呼ばれた件を伝えた。話を聞くにつれ、青江は明らかに萎《しお》れていった。 「——時間がない。急かせて悪いが、なにやら適当に見繕ってくれ」 「適当というわけには……」 「構わん。要は無様でない程度に飛んで、見苦しくないように割れればいいのだ。工夫をしたところで始まらん。儀礼が恙《つつが》なく終わればそれでいい」 「しかし……新たに登極《とうきょく》なさる王の初めての大射なのですから」  丕緒は薄く笑った。 「じきにまた変わる」  丕緒さま、と青江は咎《とが》める声を上げた。 「また女王だそうだからな」  女王の治世など想像がつく。何年か玉座の上で夢を見て、そのうち夢にも倦いて身を滅ぼす。予《よ》王の治世はわずかに六年、その前は比《ひ》王で、これの治世も二十三年にしかならなかった。その前の薄《はく》王が十六年。女王が三代続いたその間、王が玉座にいた時間より、そうでない時間のほうが長い。 「工夫しても詮方ない。適当に見栄《みば》えがして、めでたそうならそれでいい」  青江は悲しそうに眼を伏せたまま足許に零《こぼ》した。 「……そんなことを仰らず、もう一度、かつてのような見事な射儀を見せてください」 「何も思い浮かばない。とにかく時間もないことだし、過去の陶鵲を使い廻すしかなかろう。小手先でいい、多少あやをつけて目先を変えるのだな」  青江は傷ついたように項垂《うなだ》れた。 「……とにかく図会を持って参ります。しばしお待ちください」  堂を出ていく青江の背が寂しげだった。青江は蕭蘭の徒弟《でし》だった。蕭蘭が姿を消して工手から羅人に取り立てられたが、期を同じくして丕緒は陶鵲の思案を止めた。陶鵲は射儀にのみ使用するものだが、常日頃から工夫をしていなければ急の儀式に間に合わない。にもかかわらず、青江が羅人になってからというもの、丕緒はただの一つも陶鵲を作っていなかった。青江がそれを己のせいだと思っていることは理解していた。青江の腕に不足があるから、丕緒は陶鵲を作る気になれないのだ、と。  丕緒は青江の席に坐った。卓の上には古い図会や試しに作った細工の類が並んでいる。揃えて積み上げた書き付けの上には青い陶鵲が載っていた。文鎮《ぶんちん》代わりに使っているのだろう、羅人府に伝わる古いものだ。細かい意匠で埋め尽くされた四角い陶板の中央には、尾の長い鳥の絵が染め付けられている。鵲の絵だ。そもそもはこんな他愛もないものだったのだ——と思い、陶鵲に罅《ひび》が入っているのに気付いた。よくよく見れば鵲の尾を分断する形にごく細い亀裂がいくつも走っている。割れていたものをそこで接いであるのだ。 「……いい細工だ」  青江が行なったのだろう。蕭蘭が眼をかけて育てただけのことはある。これだけの技量に不満のあろうはずがない。  丕緒は陶鵲を手に取ってみた。それなりに厚みがあり、ずしりと重い。軽い陶鵲は良く飛ぶが、それだけ速いので射損じることがある。ある程度の重みは必要で、わずかに底面を窪ませてある。そのほうが空に留まる時間が長い。——陶鵲の最も初期の形だ。  ここから羅氏たちは創意工夫を重ねてきた。最初は正確に射抜くため、できるだけゆっくりと飛び、長く宙に留まるよう形状や重さに工夫がなされた。そのうち、見た目にも拘《こだわ》るようになった。丸や方形の陶板でしかなかったものが、さまざまな形を取るようになった。凝った図柄を染め付けるばかりでなく、金や宝玉で象眼《ぞうがん》したものもある。やがては飛び方までが工夫され、素材や加工を吟味することで砕け方をも工夫するようになった。今では陶鵲は、必ずしも陶製であるとは眼らない。にもかかわらず陶鵠と呼ばれるのは、古い時代の名残だろう。  ただ——さらに古くは実際に鳥を射たらしい。鵲をはじめとする様々な鳥を放し、射る。だが、王の宰相となる宰輔《さいほ》は殺生を忌《い》む。それで将来にかかわる吉礼であるにもかかわらず、射儀に宰輔は臨席しないのが通例だった。それでは吉礼にならない——そう思ったのかどうか、どこの国のいつの時代とは知れず、鳥の代わりに陶板を使うようになった。射落とした陶鵲の数だけ鳥を王宮の庭に放すようになったのだと聞く。  なぜ鵠なのかは誰も知らない。おそらく鵲の鳴き声は喜びの前兆だとされることと関係しているのだろう。射落とすことが目的ではなく、射落とした数だけ鵠を放すことのほうに主眼があったのかもしれない。陶鵲が射落とされれば射落とされるだけ、喜びの前兆とされる声が王宮に満ちる、というわけだ。 確実に射抜かれ割れるよう——そこから歴代の射鳥氏と羅氏が思案と工夫を重ねるうちに、射儀は陶鵠を射て砕くことそのものが目的になっていった。楽を奏でる陶鵲は、丕緒が作った中の最高傑作だ。  思えば、あれが丕緒にとって最も賑々しい射儀だった。当時の射鳥氏は祖賢《そけん》、悧《り》王の治世も末期にろうとしていた。——もちろん、当時は末期などと知る由もなかったが。  丕緒が手先の器用なのを見込まれて羅氏になったとき、すでに祖賢は射鳥氏として経験豊富な老爺《ろうや》だった。丕緒は祖賢から必要な知識の何もかもを与えられた。温厚で——しかも、いつまでもどこか無邪気なところを残した祖賢と共に、射儀の工夫をするのは楽しかった。ひとつ工夫が成功すれば、新たな望みが生まれる。祖賢と共に羅人府に通い詰め、すでに羅人であった蕭蘭を含め、三者で寝食を共にしながら試行錯誤を重ねた。祖賢は射鳥氏中の射鳥氏と呼ばれ、じきに丕緒は羅氏の中の羅氏と呼ばれるようになった。楽を奏でる陶鵲は悧王を大いに喜ばせ、わざわざ雲の下に降りてきて射鳥氏府を訪ねてきた王の手から丕緒らは直々に褒美を授かった。治朝に住まう者にとって、これ以上の誉れはなかった。そのままでいられれば、どんなにか良かっただろう。  ——だが、王は変節した。次にはどんな楽を鳴らそうか、今度こそ鵲に芳香をつけ、砕ければ馥郁《ふくいく》たる匂いが流れるようにしよう——そう思案している間に、悧王の治世は翳り始めた。次に大射があったのは、三年後だったか。王の在位六十年を祝う席だったが、このときすでに悧王は暴君へと姿を変えようとしていた。  悧王に何かあったのかは知らない。一説には太子《たいし》を何者かに暗殺されたことが王と側近の間に深い亀裂を作ったのだと言われている。太子を暗殺した何者かは明らかにならなかった。それで悧王は疑心暗鬼に捕らわれたのかもしれない。官吏に対して辛く当たることが増えた、と言われた。それが雲の上から下ってきて丕緒の身辺にまで及ぶまで、いくらもかからなかった。王は事あるごとに官吏を試すようになった。不可能とも思える難題を突きつけ、時には過度な忠誠の証を求めた。射鳥氏に対しても例外ではなかった。六十年の在位を祝うに際して、前回以上の射儀を見せよ、と直々の言葉があった。言外に、前回以上でなければ許さないという含みが漂っていた。  当時のことを思い出すと、丕緒は今でも息苦しい気分になる。丕緒らの工夫は楽しみではなく課せられた義務になった。特に射鳥氏の上官にあたる司士《しし》が、功を焦ってこうせよああせよと無理な横やりを入れた。前回以上でなければならぬ、という義務感と、司士の現場を考慮せぬ横やりに手枷足枷《てかせあしかせ》を填《は》められた状態で射儀に漕ぎ着けるのはたいそうな苦労だった。  それでも射儀自体は成功したのだ、と思う。前回以上だと悧王は喜んだ。だが、祖賢も丕緒もそれで満たされることはなかった。陶鵲は見事に砕けたが、吉兆だとは思えなかった。射儀の頃には、丕緒の周囲でも見慣れた官吏がぼろぼろと欠けるようになっていた。信を失った王の前で射落とされる陶鵲は寒々しく、どんなに見事な花を咲かせても、見事な楽を芳香と共に奏でてもただ虚しいだけだった。  それでも——それだからこそ、祖賢は新しい趣向を凝らすことに前向きだった。 「今度は王のお心が晴れるようなものにしよう」  どうだ、と院子の椅子に跨《またが》って丕緒に問いかけた祖賢は、幼童《こども》が悪戯《いたずら》を企むような顔をしていた。 「それは結構ですが、どうやってお心を晴らします」  丕緒が訊くと、さてなあ、と祖賢は天を仰いだ。 「賑々しく華やかなだけではいかん。もっと心が浮き立つようなものでないと。それも気持ちが高揚するのではないぞ。何となく心が温もって、自然に笑みが零れる、そういうふうに浮き立つのでないとな。笑みが浮かんで、周囲を見渡すと、高官たちの顔にも同様の笑みが浮かんでいる。互いの笑顔を確認して、親しみを感じ、和む。——そういうのはどうだ」  丕緒は苦笑した。 「またそういう、分かったような分からないようなことを仰る」 「分からんか? ほら、微笑ましい景色を見たときに、そういうことがあるだろう。笑っている互いの顔を見て、何かが通じた気がすると申すか——」 「感じならば、充分に分かっておりますよ。問題は、それをどう形にするかでしょうに」  形かあ、と祖賢は顔を傾けた。形なあ、と呟いて逆へ傾ける。 「とりあえず、雅楽は違うと思うのだがなあ」  雅楽は雅声《がせい》ともいい、「雅正《がせい》の楽」を略した呼び名だ。国の威厳ある祭祀や礼典に用いる古典音楽で、用いられる楽器も古楽器に限られ、歌がつく場合は歌謡ではなく祝詞《のりと》に近い。楽曲そのものも曲想より理論のもので、音楽と言うより呪力を持たせた音の配列と言ったほうが正しかった。重厚で荘厳だが、楽曲としての楽しみには欠ける。 「では、俗曲を使いますか」  それだ、と祖賢は跳《と》び上がった。 「俗曲がいい。それも酒宴で使う艶《えん》な曲ではないぞ。もっと軽やかな——」 「童歌のような?」 |「童歌。悪くない。働くときの歌でもいい。ほら、川で洗濯をするかみさんたちが、よく声を揃えて歌っているだろう。ああいう曲をこちらからひとくさり流して、別の曲をあちらからひとくさり流す。それでどうだ」  眼を輝かせた祖賢を苦笑まじりに見やり、丕緒は視線を蕭蘭に向けた。院子の端の石に坐って、梨の実を投げながら祖賢と丕緒のやりとりを聞いていた蕭蘭の顔には、仕様のない幼童を見守るような種類の笑みが浮かんでいる。 「やってみても構いませんけど」  蕭蘭は言って、最後の実を投げた。辛抱強く投げた実のおかげで、谷底にはささやかな梨木の森が生まれつつあった。 「でも、俗曲は雅楽に比べて大変ですよ。雅楽なら音も調子も理屈で機械的に決まってますけど、俗曲はそうはいかないんですから」 「蕭蘭ならできるだろう?」  老爺はねだるように女の手を引いた。蕭蘭は苦笑して丕緒を見る。丕緒は笑いを怺《こら》えて溜息をついてみせた。 「音は実際に砕いてみて、一つ一つ整えていくしかないだろうな。調子を合わせるのも耳が頼りだ。耳で合わせた調子に従って陶鵲を飛ばす。また投鵲機が要るだろう」 「あっちからひとくさり、こっちからひとくさりだ」  祖賢は得意げに断言する。丕緒は頷いた。 「つまり、投鵲機は複数要る、ということだ。曲ごとに投鵲機を作って、射手が矢を陶鵲に当てる地点も複数の目印を立てて正確に決める」 「あらまあ、大変だこと。また冬官を総動員だわ」  蕭蘭も溜息をついたが、その眼はやはり笑っていた。素材の工夫、投鵲機の工夫、陶鵲そのものの製作——結局はいつも、他の冬匠《とうしょう》の手を借りて、結果として冬官府を挙げての騒動になる。だが、不思議に冬匠が嫌な顔をすることはなかった。蕭蘭もそうだが、冬匠は概《おおむ》ね、無理難題を言われると奮起するのだ。祖賢や丕緒が持ち込む話はいつも必ず前例のない無理で、だから口先では四の五の言うが、そのわりに楽しげに手を貸してくれる。  他ならぬ丕緒もそうだ。前回以上であれ、と他者から目標を強制された陶鵲作りは苦しかった。だが、これを作ろう、と前向きに示された無理難題は楽しい。前回が苦しかっただけに嬉しかった。  ちょうど青江が羅人府に工手として入ってきたのはこの頃だったか。まだまだ工手としては拙《つたな》いながらも、青江でさえ楽しげに手作業に没頭していた。  ——だが、祖賢はある日突然、乱入してきた兵卒に連れて行かれた。  丕緒には今も、何があったのか分からない。謀反《むほん》の罪であったことは知っているが、断じて祖賢には王に対する反意などなかった。おそらくは誤解か——あるいは虚言によって謀反の罪に連座することになったのだろうが、その経緯はあまりにも複雑で丕緒には辿《たど》りようがない。謀反などあり得ないという丕緒の叫びはどこにも届かなかった。そもそも、どこに向かって叫べばいいのかすら分からなかった。射鳥氏の上官にあたる同士は連座をおそれて丕緒を避け、その上の太衛《たいえい》も大司馬《だいしば》も雲の上、訴えようにも面会する術さえ存在しない。訴状を書いてみたが返答はなく、高官たちの手に渡ったのかどうかすら分からなかった。  所詮、世は天上でのみ動くのだ——そう言って慰めてくれたのは誰だったか。丕緒や蕭蘭の周囲にいた者たちは、せめても彼らが連座せずに済んだことを喜ぶべきだ、と言った。おそらくは祖賢が身を挺して庇ってくれたのだろう、ついに丕緒や蕭蘭が共謀を疑われ、取り調べを受けることはなかった。それがいっそう苦しく辛い。やっと司士が面会に応じてくれたと思えば、それは最悪の事態を告げるためだった。祖賢には身寄りがないから、丕緒に遺骸を引き取るように、と。  憤慨する気力も、涙も枯れていた。言われるまま刑場から祖賢の首を引き取り、抱いて帰る道すがら、丕緒は一つの確信に辿り着いた。  ——鵲は喜びの前兆を鳴く。その鵲を射落とすことが、吉兆であるはずがない。  陶鵲が射技かれ、砕けて落ちることで見る者を喜ばせるのは間違っている。本来、陶鵲は射てはならないのだ。当ててはならず、砕いてはいけない。だが、射儀とは陶鵲を射る行事だ。陶鵲が射落とされるのはあってはならないことだが、王の権勢が儀礼という形でそれを強要する。吉兆ではない。凶兆だ。王が権の使い方を誤れば凶事しかもたらさない。それを確認する行事が射儀なのだと、そう思った。 「匂いを取ってしまおう」  祖賢の弔《とむら》いを済ませた後のある日、丕緒は工舎に行って、蕭蘭にそう告げた。まあ、と蕭蘭は眼を丸くし、困ったように手元を見た。 「構わないけど——でも、せっかくここまで漕ぎ着けたのに」  小皿の中に銀色の小さな玉がいくつも転がっていた。中には祖賢が目指した香油が入っている。祖賢は匂いにも拘った。単に良い香りではなく、心が浮き立つような香りであって欲しい。浮き立ち——同時に、満ち足りる、そんな匂いがいいのだと主張した。冬官|木人《ぼくじん》に諮《はか》り、工舎に通い詰めて香油を調合した。品良く香るよう香油を封じる玉の大きさも工夫して、祖賢亡き今になって、やっと完成したところだった。 「ないほうがいいんだ。陶鵲の砕ける音も変えよう。もっと陰に籠《こ》もった音のほうがいい。奏でるのも賑やかな楽曲は違う。いっそ大葬の時に使う雅楽でいいぐらいだ」  蕭蘭は控えめに苦笑しながら溜息をついた。 「全部やり直せってことね」  蕭蘭は小皿に改めて目をやる。惜しむような——あるいは、哀しむような色がその眼に浮かんでいた。 「でも、いくら何でも大葬の雅楽というわけにはいかないでしょ。それじゃあ吉礼にならないもの」 「では、俗曲でいい。ただし、明るい曲は違う。音も減らそう。もっと寂しい楽でいい」  そう、と感情の窺《うかが》えない声で蕭蘭は呟いただけで、特に異論は唱えなかった。匂いを取っていかにも寂しい俗曲を奏でるよう工夫したが、それを悧王に披露する機会はなかった。在位六十八年で悧王は斃《たお》れた。  それからの空位の時代、その間も丕緒は陶鵲を作り続けた。いつしか陶鵲に民を重ねて見るようになったのは、青江の一言があったからだった。 「なぜ鵲なんでしょうね」  青江は手先も図抜けて器用で、しかも頭も良かった。祖賢が失われてから、蕭蘭はまるでその穴を埋めようと意図したかのように、青江を手許に置いて熱心に仕込むようになった。 「鵲の声は喜びの前兆だと言うからな」  丕緒が説明すると、青江は首を傾げた。 「縁起の良い鳥なら他にもいるでしょう? もっと綺麗な鳥とか、珍しい鳥でないのはなぜなんでしょう。不思議です」  確かにそうね、と蕭蘭は細工をする手を止めて、興味深そうに眼を輝かせた。 「言われてみればその通りだわ。鳳凰《ほうおう》だって鸞鳥《らんちょう》だっていいのにねえ」  まさか鳳凰や鸞鳥を射落とすわけにはいかないだろう。——丕緒はそう苦笑したが、改めて考えると確かに不思議だった。  鵲は特に珍しい鳥ではない。むしろ廬《むら》や耕地で普通に見かける凡庸な鳥だ。烏のような黒い頭と黒い翼を持っていて、翼の付け根と腹だけが白い。そして長い尾。体長ほどもある長い尾も烏色だ。すんなりした翼と長い尾は優美だが、格別美しい色彩でもなく目を引く模様があるわけでもない。特に鳴き声が美しいわけでもなかった。雀や烏のようなありふれた鳥で、春先には地面を啄《ついば》み、秋になれば木の実を啄む。飛んでいる姿より、地を歩いたり飛び跳ねる姿を見ることのほうが圧倒的に多い。  ——民のようだと、ふと思った。  どこにでもいるごく普通の人々。質素な衣服に身を包み、その一生のほとんどを地を耕すことで終える。とりたてて才があるわけでもなく、耳目を引くほど見栄えが良いわけでもない。地道にこつこつ技を磨き、あるいは勉学に勤しんだところで、せいぜいが丕緒らのような下級官止まり、雲の上へと駆け昇ることなどあり得ない。それを恨むでなく、無心に日常を積み重ねていく——ただ、それだけ。  間違いなく鵲は民だ。満ち足りて笑み崩れ、喜んで歌えば、確かにそれは王にとっての吉兆だろう。民の喜びは王の治世が正しいことの証左《しょうさ》、民が歌い囀《さえず》るならばその王の治世はそのぶんだけ長く続く。  陶鵲を射て喜ぶのは違う、という勘は誤っていないのだと思った。王の持つ権が民を射る。射られて民は砕け散る。射落として喜ぶのは間違っている。あえて過つことで、権の恐ろしさを確認する——させなければならない。  射抜いた射手が罪悪感に駆られるような陶鵲を作りたかった。見る者が胸を痛めるようなものを。  だが—— 「——とりあえずあるだけ掘り返してきました」  唐突な声で思考から醒《さ》めた。丕緒が振り返ると、青江が大部の書き付けを抱えて戻ってきたところだった。 「幸い、丕緒さまの作は全て図会が残っていました」  そうか、と丕緒は息を吐く。 「では、その中から間に合いそうなものを選んでくれ」  青江は項垂れる。 「……それほど私の腕を見限《みかぎ》っておいでですか」 「そうじゃないと言っている」  青江は黙ったまま首を振った。そうじゃない、と丕緒は改めて口の中で呟く。ずしりとした重みを掌《てのひら》に思い出して目をやれば、まだあの陶鵲を握っている。  図会の中から適当なものを選んで製作にかかろうとしたが、これは丕緒自身が予想していた以上の難問だった。たとえ図会が残っていても実際に陶鵲を作ったのは蕭蘭で、工程の多くは蕭蘭をはじめとする冬匠の微妙な手加減に負っていた。材質にしても細工にしても、細部は担当した冬匠が試行錯誤の末に辿り着いたものだ。それは冬匠自身の眼と手を通さなければ加減が分からない。実際に作るのは工手だったが、師匠が作業の現場で、口伝え、手伝えでその加減を指示してきた。つまりは、実際にその作業に関わった冬匠がいなければ、もう一度最初からやり直さねばならない、ということだった。しかも——悪いことに、慶《けい》は悧王の時代の末から、常に波乱を抱えてきた。蕭蘭がすでにいないように、冬匠の多くも姿を消し、加減を覚えている者の数が限られる。過去の陶鵲をすぐさま作ることは不可能だった。工程の多くは一から試行錯誤をせねばならない——とすれば、新たに作っても労力は変わらない。むしろ過去の記録に縛られる必要がないだけ、話が早いと言えた。  そうは思ったが、身体が動かなかった。|往生際《おうじょうぎわ》悪く過去の図会を漁《あさ》っている間に、正式に新王が登極した。過去の儀礼に則り、新王が王宮に入った際には、位を持つ官吏の全てが雲の上にまで出向いてこれを迎えたが、丕緒のいる場所からは新王の姿を見ることなど、とてもできなかった。顔も分からず、為人《ひととなり》も分からない。異境から来た娘だ、ということだけが確かなこととして雲の上から流れてきた。物慣れず常識に疎《うと》い、おどおどとした小娘だ、と。  またか、と思うと、いっそう陶鵲を作る気が萎えた。  薄《はく》王は権を顧みず、ただ奢侈《しゃし》に溺れた。極みない地位に昇り詰め、そこで得られる最上級の贅沢に舞い上がり、そのまま一度も地上に降りてこなかった。比《ひ》王は逆に権にしか興味を持たなかった。自らの指先ひとつで百官と人民が右に左に意のままに動くのを見て喜んだ。そして予《よ》王はその双方に興味を持たなかった。王宮の深部に引き籠もり、全く表に出てこない。権はおろか国も民も拒んで、ようやく朝廷に現れたときにはすでに常軌を逸した暴君だった。  新王が王宮に入って間もなく、丕緒は再び射鳥氏に呼ばれた。以前と同じく、丕緒の機嫌を敗り結ぼうとするかのように、遂良《すいりょう》は丁重で親しげだった。 「どうだ? 良い思案は浮かんだか?」  いえ、と丕緒が短く答えると、遂良は困ったように眉を寄せる。次いですぐに、取りなすような笑みを浮かべた。 「幸か不幸か、思っていたよりも射儀が遅れそうだ。即位礼では入射を見送るらしい」 「見送る——?」  丕緒が怪訝《けげん》に思って問い返すと、遂良は顔をしかめた。 「頼むから理由は訊かないでくれ。私にもさっぱり分からない。新王の意向か——さもなければお偉い方々の意向だろうが、我々にいちいち理由を説明してはくれないからな」  さもあろう、と丕緒は頷いた。 「どうやら初の大射は郊祀《こうし》になりそうだ。せっかくの大射を即位に際してお見せできないのは無念だが、これで時間には余裕ができた」  天に国の加護を願う郊祀の儀式は必ず冬至に行なわれる。特に即位して初の郊祀は王にとっても国にとっても重大な儀式だ。初の郊祀なら大射がついて当然——どうあってもこれは動かないだろう。冬至までは二月と少し、一から創案を練っても、ぎりぎりで間に合う。 「夏官《かかん》全ての将来がかかっておる。何もかもそなたに任せるゆえ、ぜひとも夏官の面目が立つだけのものを作ってくれ」       3  どうあっても陶鵲《とうしゃく》を作らねばならない。余計なことを考えている余裕はなかった。  諦めて卓《つくえ》の前に坐った。丕緒《ひしょ》は羅人《らじん》府の堂屋《むね》の一つに自分の房間《へや》を持っていた。大して広くもない房間に卓が二つ、榻《ながいす》が二つ。かつて祖賢《そけん》と居着いていた場所だ。卓の一つ、榻の一つはとっくに物置になっていた。丕緒の使っていたほうは、さすがに片付いていたが、何しろ長いこと寄りつきもしなかったので至る所に埃《ほこり》が降り積もっている。とりあえず卓の埃を払い、嫌々ながら紙を広げ、墨を摺って筆を手に取った。——そして、そこで動きが止まった。丕緒の中には何もなかった。  何かを思い描こうとしても空白しかない。  思案が枯れた、と丕緒は常々言ってきた。だが、それは作る気が失せただけのことだと自分でも思っていた。あれをやりたい、これを試してみたいという欲は確かに枯れていた。だが、何も思い浮かばない、などということは思ってもみなかった。  あまりに長く職を放り出していたせいか。——丕緒は思い、かつて自分がどうやって思案を練っていたのか思い出そうとしてみたが、それすら朧《おぼろ》で出てこない。  次をどうしようか、詰まったことは多々あった。だが、そういう場合にも丕緒の頭の中には、あれこれの断片が無数に漂っていたものだ。その中から何かを選ぼうにも気が乗らない。何となく気を引かれて取り出してみても続かない。——思案に詰まるというのはそういうことで、肝心の頭の中に何もない——断片すらなく、綿のような空白しか存在しないという経験は初めてだった。  我ながら愕然《がくぜん》とした。次いで、焦った。大射《たいしゃ》ともなれば陶鵲はそれなりの数が要る。数を揃えるだけでも工手《しょくにん》が不眠不休で働いて半月以上がかかるものだ。数を揃える前に試行錯誤を終え、試射を済ませて調整を施し、陶鵲自体は完成させておかねばならない。本当に一からやるのであれば、即座にかからねば間に合わない。何かを引き出さねばならないが、何もない。  ——そうか、と思った。自分は既に終わっていたのだ。  終わったのがいつかは分からない。蕭蘭《しょうらん》が消えたときか——それとも、予《よ》王から言葉を賜ったときか。あるいは、それ以前なのかもしれない。祖賢を失い、陶鵲は民だと思い定めて以来、丕緒は取り憑かれたように陶鵲を作ることに邁進《まいしん》してきたが、ひょっとしたらその熱気は最初から「作りたい」という思いとは違う種類のものだったのかもしれない。  そう、確かに丕緒はその間、陶鵲を作ることで喜びを感じたことはなかった。  ——もっと綺麗なものにすればいいのに。  指示を与えるたび、蕭蘭はそう苦笑した。そのたびに丕緒は繰り返した。陶鵲が砕けるのを見て喜ぶのは間違っている、と。 「陶鵲が射抜かれて落ちるのは惨いことだ」  現実を見ろ、と丕緒は漏窓《まど》から見える谷間を示した。巨大な峰に挟まれた峡谷、生い茂る梨の木が覆い隠してはいても、その底には王に顧みられず権に踏みにじられた下界が横たわっている。 「無能な王の粗雑な施政が国を荒らす。民を顧みない政《まつりごと》に翻弄されて、誰もが飢え、困窮している。王は指先一本で、それを救いもすれば、さらなる困窮に突き落としもする。命を奪うこともある。それを王に分かってもらわねばならない」  蕭蘭は呆れたように溜息をついた。 「分かってもらえるものかしら。陶鵲を見て分かる人なら、見るまでもなく心得てるような気もするけど」 「そうかもしれん」  蕭蘭の言には一理があった。だが、ならば他にどうすればいいのだ。 「ありがたくもない王のためにただ陶鵲を作るのか。その場でだけ王や側近を喜ばせて、それが何になるというんだ」 「でも、それが仕事なんだから」  当然のように言って、平然と細工を続ける蕭蘭の姿が苛立《いらだ》たしかった。楽しそうに見え、満ち足りたように見えるからいっそう腹が立った。 「確かに我々は国官とは言っても、取るに足らない下級官だ。国の大事に関与することはないし、職分から言っても国政に意向を反映させることもできない。だが、国に官位を賜っていることに変わりはないだろう。我々の肩には民の暮らしが乗っているんだ。せめて自分の職分を通して、少しでも民のためになることをする——そうでなくてどうする」  蕭蘭は顔も上げずに、くすりと笑った。 「民のため——ねえ」 「では逆に訊く。お前は羅氏《らし》や羅人がどうあるべきだと思っているのか」 「どうあるも」  呆れたように言って、蕭蘭は笑った。 「人間はみんな同じでしょ。与えられた仕事をこつこつこなすの。だから、気難しい羅氏が難題をふっかけてきても、ちゃんとやっているでしょう」 「そうやって目を逸らしたら、何一つ変わらない」 「目を逸らしたって嫌でも目に入るけど。——王だって同じじゃないかしらね。見たくもないものを無理に突きつけても、眼を閉じるだけじゃないかしら」 「——お前が下界から目を逸らし、梨で覆い隠すように?」  皮肉を含ませて言うと、蕭蘭は肩を竦《すく》めた。 「だって荒れ果てた下界を見ても仕方ないもの。それより綺麗なものを見ていたほうがいいじゃない? 嫌なことをわざわざ数えて不愉快な思いをするなんて馬鹿げてる」 「それで? 工舎の中に閉じ籠もって、日がな一日、卓に向かって俯《うつむ》いているわけか。そんな閉じた場所にしか、楽しいこともないのだろう」  もちろんよ、と蕭蘭は声を上げて笑った。 「ただし、そこにしかないんじゃなくて、そこだけにあるの。細工をするのは楽しいもの。上手くいったりいかなかったり——どちらでも楽しい」  言ってから、蕭蘭は鑢《やすり》を手に敢った。銀の細工を磨き始める。 「余計なことを考えず細工にだけ集中してるのは、とても楽しい……」  独りごちるように言ってから、蕭蘭はくすくすと笑った。 「意外に民もそうかもしれないわよ? あなたが哀れんでいるおかみさんは、王がどうとかより、今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく乾いたとか、そういうことを喜んで日々を過ごしているのかも」  そう言ってから、丕緒の不快を嗅《か》ぎ取ったのだろう、慌てたように居住まいを正して真顔を作った。 「はい。もちろん羅氏の仰る通りにしますとも。喜んで」  蕭蘭には現実を見る気がなかったのだ、と丕緒は思う。民にも国にもさして興味がなかった。そこにある悲惨より、自身のまわりに卑近な喜びを探そうとした。祖賢が処刑されたときには声を嗄らして泣いていたが、それとて親しかった者が死んだというだけのことでしかなかったのだろう。事実、丕緒がずっとそれを引きずっているのに比べ、蕭蘭はすぐにそこから立ち直った。残念だけど済んだことだ、と言って。  蕭蘭がそんなふうだったから、羅人府の工手たちも総じてそういうふうだった。気乗りはしないが、羅氏である丕緒が命じるから生真面目にこなしている。誰の理解も得られず、丕緒は孤立した。祖賢に代わって任についた射鳥氏《せきちょうし》たちは、丕緒に任せておけばそれで足りると思っているふうで、丕緒が何を作っても大して興味はなさそうだった。彼らが興味を持つのは、その結果だ。雲の上の人々がそれを喜ぶかどうか。そして丕緒は、概《おおむ》ね歴代の射鳥氏を満足させてきた。  丕緒の作る陶鵲は、総じて喜ばれた。時には「晴れやかさがない」と言われることもあったが、むしろ荘厳で美しいと褒められることのほうが多かった。必ずしも本音とは限らない。名高い「羅氏中の羅氏」が作ったのだから、褒めるべきだという思い込みもあったに違いない。だが、そうと分かっていても、にこやかに「見事だ」と言われることほど、丕緒を打ちのめすことはなかった。思いを込めたが、通じない。一兵卒にすぎない射手が、儀礼の後で丕緒を訪ね、いかにも辛く悲しくて胸を打ったと言ってくれるのも皮肉だった。その身分が低ければ通じる——高ければ全く通じない。届かねばならない場所に、丕緒の意図は全く届いていなかった。  丕緒は陶鵲を作ることに没頭した。二人の女王が現れ、そして消えていった。多くの場合、玉座には王の姿がなく、従って大射が行なわれることもなかったが、丕緒は工夫を止めなかった。やがて——ようやく丕緒の意図が王に通じる日が来た。  それは予王の即位礼だった。  その陶鵲は長く優美な翼と尾を持ち、投鵲機から投げ上げられるというよりも押し出されるようにして飛び立ち、滑るように宙を舞った。空の高所から舞い降りる鳥を見ているようだった。射手が射ると、か細い音を立て、五色の飛沫を散らして二枚の翼と尾に割れた。それはもがくように舞い落ちる。割れたときに立てた音は、その間、悲鳴のように頼りない尾を引いた。苦しげに落ちる翼は地に叩き付けられ、痛ましいほどに澄んだ音を立てて砕けた。砕けると同時に赤い玻璃《はり》の欠片《かけら》となって散る。射儀《しゃぎ》が終わると御前の廷《にわ》は輝く玻璃の欠片で紅に染まっていた。  王や高官が居並ぶ承天殿《しょうてんでん》、その前に広がる廷からは声が絶えた。しんとした重い沈黙を聞いて、丕緒はようやく己の意が通じたことを悟った。射儀の後には王に呼ばれ、御簾《みす》越しとはいえ、直々に言葉を賜った。  そして彼女は開口一番、「恐ろしい」と言ったのだった。 「なぜあんな不吉なものを。私はあのような惨いものを見たくはありませんでした」  丕緒は言葉を失った。惨いからこそ見て欲しかったのだ。民が失われるのは惨いことだ。射儀を通じて、王の両手に乗ったものを確認して欲しかった。 「主上《しゅじょう》はとても傷ついておられる」  そう、宰輔《さいほ》からも声を掛けられた。だが、もちろん傷ついて欲しかったのだ。その痛みから民の痛みを察して欲しかった。深い傷になれば忘れられないだろう。惨いことだと、深い痛みでもって胸に刻みつけて欲しかった。  惨いことから目を逸らしたら、惨いことはなくならない。惨さを自覚することができなくなる。  胸を剔《えぐ》ったのに届かなかった——丕緒は途方に暮れた。他にどうすれば良かったのか。丕緒は急速に陶鵲を作る意欲を失った。即位後の郊祀《こうし》では大射そのものが行なわれなかった。理由は射鳥氏も知らなかったが、たぶん王が見たくないと言ったのだろうと、丕緒自身は思っている。それでも陶韻を作ることを止めたわけではなかった。このときは——まだ。  以来、丕緒は頻繁に市井に降りるようになった。民の暮らしを間近に眺め、時には戦場や刑場にまで足を運んだ。悲惨を目の当たりにすることで、何か思案を得られたいか。萎《な》えそうになる自分を掻き立てる何かを探していたようにも思う。  そこから拾ったなにがしかを羅人府に持ち帰るたび、蕭蘭は苦笑を浮かべてこれを受け取った。誰に差し出す宛もない陶鵲——丕緒自身も何を作ればいいのか分からず、ただ作っては放り出すことを何年も繰り返した。そしてある日、丕緒が工舎に戻ると、そこには蕭蘭の姿がなかった。  その日は重く雲が垂れ籠《こ》めていた。その前夜、下界ではまだ稲穂が熟してもいないのに、霜が降りた。どうしたことか、と不安そうに天上を見上げる民の声を聞きながら、丕緒は短い旅を終え、堯天《ぎょうてん》ヘと戻って治朝《じちょう》に昇った。そのとき、どこでどんな創案を拾ってきたのか、丕緒は今や思い出せない。確実に何かを拾い、意気込んで冬官《とうかん》府へと向かい——そして、立ち並ぶ工舎が妙に静まりかえっているのに気付いた。  まるで何か眼に見えない巨大なものが、一帯に伸《の》し掛かっているようだった。不穏な気配とでも言うべきものを感じつつ、羅人府に入ると、蕭蘭の姿がない。蕭蘭の堂《ひろま》は、いつも通りだった。ごたごたと物を積み上げた卓、その間に放り出された工具、まるで少しの間、席を外しているとしか思えなかった。なのになぜ、堂に入った刹那、丕緒はそこに凍り付くような空洞を感じたのだろう。何一つ欠けてないのにその部屋は空っぽだった。呆然と欠けたものを探していると、青江《せいこう》が駆け込んできた。 「丕緒さま——いらっしやるお姿が見えたので」  青江の顔には血の気がなかった。 「蕭蘭は」 「おいでになりません。朝からお姿が見えないのです。あちこちをお探ししましたが、どこにもお姿がありません。私にもどういうことなのか——でも」  青江は目に見えて震えていた。 「師匠《ししょう》だけではありません。あちこちの工舎から工匠が消えています。それも——女ばかり」  丕緒は竦んだ。 「……女ばかり?」 「はい。櫛人《しつじん》の師匠は夜明け前に兵卒がやってきて連れて行ってしまったのだそうです。将作の工手も女ばかりが同様に引き出されてしまったとか——丕緒さま、これは」  青江の震えが丕緒に伝染した。膝が笑う。——とても立っていられない。 「……だから、逃げろと言ったのに!」  予王が何を思ってそれを命じたのかは知らない。王宮の奥に引き籠もっていた女王は三月ほど前、唐突に朝廷に現れ、王宮の女官の全てに王宮を出て国外に退去するよう命じた。命に従わねば厳罰に処する、と暗に最悪の刑罰を匂わせていたが、当初、これを真面目に受け取る者はいなかった。  この頃、なべて玉座のほうから降ってくる法令はそんなものだったからだ。麗々《れいれい》しく定めが発布されるが、目的は明らかでなく、あるいは具体性を欠いていた。触れだけは出ても、官自体がそれを施行することに何の熱意も持っておらず、ほとんどが単なる報せで終わっていた。これについても同様で、全ての女官を王宮のみならず国からも追放するなど、およそ現実性を欠いている。宮中の官吏の半数近くが女だ。膨大な数の女を王宮から退去させるにはどれほどの時間がかかるか分からないし、何より全員を追放すれば国政が成り立たない。  最初はそう軽く受け止められていたが、やがて雲の上のほうから本当に女官の姿が消え始めた。そのほとんどは身のまわりのものだけを携えて王宮を逃げ出してのことだったようだが、明らかに逃げたとは思えないのに姿が消える者も少なくなかった。  逃げたほうがいい、と丕緒は蕭蘭に告げた。 「とても信じられないが、どうやら主上は本気であらせられる。これはこれまでのような形だけの触れではない」  まさか、といつも通りに卓に向かったまま蕭蘭は笑った。 「こんな馬鹿馬鹿しいお触れなんか聞いたことがないわ」 「だが、実際に上のほうで女官の姿が消えているんだ」  丕緒が訴えると、蕭蘭は首を傾げた。 「女官と喧嘩でもなさったのかしら。だとしても私は心配ない。だって主上は私のことなどご存じないんだもの。きっと治朝にも下級官がいて、その中には女もいるなんてこと、想像してごらんになったこともないと思うわ。いることを知らない者を罰したりはできないでしょ?」  蕭蘭はそう言って笑ったが、丕緒には蕭蘭の認識が甘すぎるように思えてならなかった。事実、彼女の姿はその日を限りに消え失せた。他の女|冬匠《とうしょう》と同じく、どこでどうなったのか、それすら知ることはできなかった。一切が雲の上で進められたことらしく、雲の下には何が起こったのかを説明できる者がいなかったのだ。ただ、消えた誰もが二度と戻ってはこなかった。予王が崩《ほう》じ、新王が立った今になっても音信の一つすらない。それだけは動かしようもなく確定している。  ——だから現実から目を逸らすな、と言ったのだ。  丕緒はずっとそういう気がしている。蕭蘭は惨い一切のことを見ようともしなかったから。王に対する認識が甘く、権に対する用心が足りなかった。目を逸らしていれば、悲惨は届かないと思ったか。祖賢が罪もなく殺されたことを忘れたのか。  腹立たしいと同時に悲しかった。蕭蘭が消えて以来、丕緒の中から陶鵲を作ろうという気は完全に失せた。  丕緒はあまりに無力だ。祖賢も蕭蘭も失われてしまった。何か起こったのか、誰を責めればいいのかを知ることさえできなかった。そこには何の罪も存在しなかったことだけは確かで、にもかかわらず守ることもできず、防ぐこともできなかった。王宮の中——王の膝許《ひざもと》にいながら。  間違っている、止めてくれと叫びたかった。だが、その声を王に届ける方法が丕緒にはなかった。それどころか、王の側近くに侍《はべ》る宰輔や高官たちに届ける術さえ持たなかった。雲に向かってどんなに叫んだところで届くまい。天上の人々にとって、丕緒は最初からいないも同然の存在だった。誰一人耳を傾けるつもりもなく、その必要すら感じていない。唯一、丕緒が王に何かを伝える術があるとすれば、射儀がそれだった。だからこそ、その射儀を通じて丕緒は懸命に思いを伝えようとしたが、届かなかった。——いや、もっと悪い。届いたのに受け入れてはもらえなかったのだ。  予王が「恐ろしい」と言った射儀から、権の惨さを理解していてくれれば。  だが、予王は理解することを拒んだ。惨いことから目を逸らし、ゆえに自身の惨さにも気付かなかった。  ——この国は駄目だ。  声を上げることにも、上げるべき声を探すことにも倦《う》んだ。どうせ丕緒は王の眼中にない。生きるためには喰わねばならないから、羅氏でいたが、陶鵲を作る気もなければ陶鵲のことを考えることも嫌だった。国も官も見たくなかった。何を思ったところで、どうせ丕緒にはそれを伝える術がなく、相手ももとより聞く気などない。  全てが無意味に思われた。何をするのも億劫で、官邸に引き籠もって過ごした。そこで何をするわけでもない。何を考えるわけでもなかった。無為《むい》に時を数えるだけ、その空虚な日々の積み重ねが丕緒を空洞にしたのだろう。  自分の中にはもう何もない——丕緒は思い、諦めて筆を置いた。  何もないなら、かつて作ったどれかを使うしかなかった。どれなら間に合うか、青江に相談しなければ。  思いながら堂を出た。院子《なかにわ》を囲む走廊《かいろう》には、秋の訪れを告げる寂しい夜風が吹いていた。  予王の陶鵲なら間違いはない。作ったのは蕭蘭だが、実際に工手を束ねて作業の指揮を執ったのは青江だ。青江が詳細を覚えているだろう。だが、あれをもう一度作ったところでまた拒絶に遭うだけだろう、という気がした。たとえ拒絶されないにしても、丕緒自身、もう一度あれを作りたいとは思えなかった。酷《ひど》い、と叫ぶだけの陶鵲など、あえて作りたくはない。ならばたぶん悧《り》王の陶鵲を作るのが正しいのだろう。だが、それも気が向かなかった。  あんなふうに華々しく砕けて欲しくなかった。もはや陶鵲に何を託そうという気もなかったが、射られた陶鵲が砕けて華麗な花を咲かせ、見る者が歓声を上げるようなものを作ることだけは、どうしても気が進まない。予王の陶鵲のように射られて壊れるのも辛い。砕けなければ意味がないが、できることなら壊れずにいて欲しかった。 「……そういうわけにもいかないか」  丕緒は独りごちて笑う。陶鵲なのだから、射落とされなければ意味がない。壊さないわけにはいかないが、砕けて楽が流れるというのも気に入らなかった。重厚な雅楽も寂しげな俗曲も違う。そもそも音律など奏でて欲しくない。もっと静かな、単なる音のほうがいい。ただし、歓声も拍手も止めて思わず聞き入るような音。澄ました耳に沁《し》みるような音色が欲しい。  思いながら隣の堂屋《むね》に入り、頼りない灯火を点《とも》して卓に向かった青江にそう言うと、青江は椅子の上から振り返って少し首を傾げた。 「たとえば——雪の音?」  青江の脇に積み上げてある箱に坐りながら、丕緒は苦笑した。 「雪は音がせんだろう」  しませんね、と青江は顔を赤くする。 「では、水音でしょうか。風音とか?」  水音——ではない、と丕緒は思う。水の零れる音、流れる音、せせらぎ、さざなみ、どれも違う気がする。かと言ってどんな風の音でもない。水音も風音も、何かを語りすぎる気がする。 「もっと静かな……そう——そうだな、確かに雪の音なのかもしれない」  何も語らないが、耳を傾けずにいられないような——。 「雪には音がないが、感じとしては雪の音だ。よく分かったな」  丕緒が言うと、青江は困ったように微笑んだ。 「師匠が似たようなことを言っておられたので。……ああ、同じことを仰っている、という気がしたんです」  丕緒は驚いて問い返した。 「蕭蘭が?」 「はい。雪のようなしんしんとした音がいい、と。自分ならそうすると仰ってました」  丕緒は言葉を失った。  ——そう言えば、丕緒は一度も蕭蘭の作りたいようにさせてやったことがなかった。  それどころか、丕緒はただの一度も、蕭蘭にどんな陶鵲を作りたいかと、訊いてやることすらしなかった。蕭蘭自身も望みを言ったりはしなかった。丕緒が頑なに惨い陶鵲を作っている間、もっと綺麗なものにすればいいのに、とは言ったものの、具体的な望みなど言ったこともなかったし、そもそも望みがあることさえ窺《うかが》わせなかった。  そうだったのか、と思った。蕭蘭もそれを望んでいたのか。 「……他には?」 「はい?」 「他には何か言っていなかったか? どう砕くか、は」  丕緒の問いに、青江は俯《うつむ》き、考え込んだ。 「予王の鳥は辛い、と仰っていました。痛ましい感じがする、と。かと言って、あまり華やかに砕けるのも晴れ晴れとしすぎて面白くない、と仰っていたような気がします」  言ってから、はたと思い出したように青江は顔を上げた。 「そう言えば、鳥がいいと仰っていた記億があります。鳥が射られて落ちてしまうのは辛いから、割れてまた鳥になればいいのに、と」 「鳥になる……」  青江は懐かしそうに頷いた。 「鳥なんだから、と常々仰っていましたよ。飛ばせてやりたい、って。飛んだままでは射儀にならないのだけど、矢が当たったとき、せめて惜しい感じがして欲しいと。当たってしまった、残念だなあと思っていると、そこから鳥が生まれるんです」 「そして、それが飛んで行く……?」  丕緒は何となく呟いたが、青江は意を得たように笑った。 「そう——そう仰ってましたよ。陶鵲が割れて本当の鵲《かささぎ》が生まれればいいのに、って。そうして飛び去ってしまうんです」 「それは悪くないな」  陶鵲が投げ上げられる。射られて割れると、そこから本当の鵠が生まれ、居並んだ人々の目の前から飛び去ってしまう。王も、玉座の威光も、百官の権威も思惑も何もかもを置き去りにして——。 「せっかく生まれた鳥が、廷に落ちて残るのも、砕けるのも嫌だと言っておられました。消えてしまったほうが気分に合うって」 「気分に合う……か」  丕緒は頷いた。蕭蘭は何も言わなかったが、同じ気分でいたのだと思った。いや、丕緒が聞こうとしなかっただけだ。頑なに自分の望みだけを追い、望みを失った今頃になって同じところに辿《たど》り着いた——。  丕緒は西の漏窓《まど》を振り返った。そこには闇しか見えなかったが、昼間ならば谷間の風景が見えたはずだ。岩肌には薄く雲がまとわりつき、眼下に街が見えるべき場所を梨木《やまなし》の群が遮《さえぎ》っている。 「蕭蘭はよくあの景色を見ていたろう」  青江は丕緒の視線を辿り、きょとんと眼を瞠《みは》った。 「……谷間の? はい、ええ」 「本当は何を見ていたのだろうな」  今になって不思議に思う。——蕭蘭は何を思って谷間を眺めていたのだろう。 「下界なんか見たくない、と言っていた。本人がそう言うから、そうなのだと思っていたが。しかし、よく考えてみれば、下界を見たくないのなら、そもそも谷など見なければいい。よく院子の際にある石に坐って、谷のほうを眺めていたが、そちらには下界しか見えんだろう」  青江もまた、意外なことを言われたように小首を傾げた。 「そう言われてみれば……そうですね」  いつか見た鳥の姿が目に浮かんだ。あの鳥は荒廃こそを見ている、という気がした。それと同様に、ひょっとしたら蕭蘭は「見たくない」と言いつつ、荒廃を見てはいなかっただろうか。 「そんなわけはないか……」  丕緒が苦笑すると、青江は問い返す。 「何がです?」 「いや。……下界しか見えないのに、その下界を見たくないと言って、辛抱強く梨を植えた。何とも気の長い話だが、本当にそうやって下界の悲惨を覆い隠してしまったな」 「覆い隠した……のでしょうか」 「違うのか?」  どうでしょう、と青江は首を傾げた。 「確かに師匠は、下界なんか見たくないと仰っていました。そのくせいつも下界を見てらした。——そう、確かに師匠は下界を見ていたんだと思います。視線が向いていたのは、堯天のほうでしたから」 「正確には梨の森だろう。特に花が咲くと、眼を細めて見入っていた」 「でも、真冬にもやっぱり同じ場所を見ていました。冬になれば梨の葉は落ちてしまいます。そこには下界の景色しかありません」 「確かにそうだな……」  青江は立って漏窓に向かった。秋めいた風が寂しげな匂いを含んで吹き込んでいた。 「下界なんか見たくないと仰っていたのは、そこに悲惨があることを重々ご存じだったからではないでしょうか。実際、辛い報せは聞きたくない、とも仰っていましたが、私がお耳に入れるまでもなく、よくご存じでした」 「蕭蘭が?」 「ええ。——聞きたくない音ほど気になって耳をそばだてずにいられない、ということだった気がします。それと同じで、分かっているから見たくない、けれども見ずにいられない、ということだったのでは。梨を植えられたのも、それで覆い隠してしまおうというわけではなくて……」  青江は言葉を探すように闇の中に下界を透かし見た。 「花が咲くと、それは喜んでおられました。なんて綺麗な景色だろう、と仰って。それは見苦しい下界を花が覆って消し去ってくれたという意味ではなかったのだと思います。きっと師匠は、下界に花を重ねておられたのではないでしょうか。花を見るとき、いつか叶うかもしれない美しい堯天を見ておられたのだという気がします」  かもしれない、と丕緒は思った。 「私は、蕭蘭は常に現実に背を向けているような気がしていた……」  青江は振り返って微笑んだ。 「それは確かだと思いますよ。決して現実に正面から向き合う方ではありませんでした。背を向けて、自分の両手とだけ向き合ってこられた方です。ただ、だからと言って現実を拒んでおられたわけではないと思います」  丕緒は頷いた。……何となく分かる気がする。現実を拒む、とは丕緒のような閉塞の仕方を言うのだろう。官邸に籠もって無為に時を数えるような。世界に背を向け閉じ籠もっていたのは蕭蘭も同じだったが、蕭蘭は陶鵲を作ること、両手を動かしてそこに喜びを見いだすことを止めなかった。今になってそれこそが蕭蘭なりの、世界と対峙する、ということだったのかもしれない、と思う。  いつも下界を見ていた。荒廃なんか見たくない、と言いながら、いつか下界が花で覆われる日を待ち望んでいた——。 「蕭蘭の望む陶鵲を作ってみよう」  丕緒が言うと、青江は切なそうに——けれども確実に嬉しそうに頷いた。 「できるだけ思い出してくれ。蕭蘭が何を望んでいたか」       4  最初の一羽は水のように青く透けた鳥だった。  王と高官たちが御簾《みす》越しに居並ぶ承天殿《しょうてんでん》、その西の高楼から飛び立った鳥は、長い翼を持ち、長い尾を持っている。薄青い冬空が凝《にご》ったようにも見えるその鳥は、楼閣に囲まれた広大な廷《にわ》をゆるやかに一周すると、ついと方向を変え、玻璃《はり》のように輝きながら空の高所に駆け上がっていった。  殿下に居並んだ射手の一人から矢が放たれた。矢は蒼穹《そうきゅう》に鳥を追い、これを射抜く。同時に鳥は澄んだ音を立てて割れ、そこから鮮やかに青い小鳥が弾けて生まれた。琺瑯《ほうろう》のように艶やかな小鳥は十程度、くっきりとした紺青をして羽ばたくように煌めきながら右に左に舞い降りていく。それは徐々に色を薄くしていった。羽ばたくように舞うほどに色が抜け、抜けた端から透明な欠片《かけら》となって壊れていった。青く透ける切片は花弁のように宙を舞い落ちる。地に接すると、あるかなきかの徴かな音を立てて砕けた。ちりちりと音を立て、透明な切片が廷に撒《ま》かれる。  次は二羽——今度は陽射《ひざし》のように金色に透けた鳥だった。二羽の大きな鳥は絡み合うように廷を巡ると、共に天上を目指し、交錯するように昇っていく。二人の射手が矢を放った。矢は鳥を射抜き、射抜かれた鳥は黄金《こがね》色の小鳥の群に変じる。小鳥たちは鮮やかな羽根を輝かせて高所から舞い降り、同時に端から透けて砕けていった。澄んだ金に花弁が舞う。ちらちらと舞う黄金色の花弁の間を、薄紫の鳥が飛び立った。今度は三羽。それが射抜かれて鮮やかな紫紺《しこん》の鳥に変じる頃には、四羽の鳥が薄紅に駆け上がっていく。上空で生まれた赤い小鳥の群は、舞いながら砕け、透ける薄紅の花弁を廷一面に降らせた。  色さまざまに鳥が舞い上がっていった。それらは射られて鮮やかな小鳥に姿を変え、小鳥は群をなして舞い降りながら脆《もろ》い花弁となって砕け散っていく。花弁が割れる密やかな音が縒《よ》り合わされ、さらさらと霙《みぞれ》のような音が場内に満ちた。  最後は銀の鳥が三十だった。射られて割れると純白の翼を待った小鳥の群に変じる。真っ白な小鳥の群は艶やかに陽光を照り返しつつ舞い降り、羽ばたく端から砕けて乳白色に透けた花弁に変じた。無数の脆い花弁が白く降る。一面の梨花が一斉に散るように。  丕緒《ひしょ》は最後の一片が、押し殺した溜息のような音を立てて砕けるのを見守った。  承天殿の前に広がる廷にはしんと物音が絶えている。一呼吸あって、人々が漏らした吐息がさざなみのように広がるのを聞いた。やがてそれが賛嘆の声となって高まる前に、丕緒はその湯をひっそりと退出した。  ——終わった。  射儀《しゃぎ》を見守っていた高楼を離れ、儀式の場となっていた西園《さいえん》を出る。自分でも不思議なほど、丕緒は満ち足りていた。ただ美しいだけの景色だったが、丕緒の気分に良く合っていた。あれが作りたかったのだし、実際にやってのけた。これ以上のことはない。  一人、路門《ろもん》を下って雲の下に戻り、まっすぐ羅人《らじん》府に向かった。射儀の成り行きを案じ、青い顔で院子《なかにわ》を歩き廻っていた青江《せいこう》に、「見事だったぞ」と声を掛けた。 「では——無事に」  青江はくしゃりと泣きそうな顔で駆け寄ってくる。  なにしろ時間が充分にあるとは言えなかった。期限までに数を揃えるので精一杯、とても大射《たいしゃ》の通りに試射をしてみる余裕がなかった。陶鵲《とうしゃく》を射てみるだけの試射なら何度もやったが、問題は昇っていく陶鵲が舞い降りる小鳥の小片とぶつかりはしないかということだった。小片は単純に小鳥を象《かたど》っただけのもの、その形状から羽ばたくように翻《ひるがえ》りながら舞い落ちるだけで、飛んで行く軌跡を操作することができない。昇ってくる陶鵲に当たれば、肝心の陶鵲の軌道が変わる。射手が射損じるおそれがあった。 「小片の高さと位置が、狙い通りに収まった。おかげで一羽も射損じずに済んだ」  良かった、と青江は力が抜けたようにしゃがみ込む。 「……もしも射損じたり、それどころか、射られる前に陶鵲が落ちてしまったらどうしようかと」 「最初は、はらはらしたが、すぐにこれは大丈夫だと分かったな。安心して見ていられたぞ。とても綺麗で——お前にも見せてやりたかった」  はい、と青江は泣き笑いに頷いた。  せっかくの景色だから、見せてやりたかった。だが、羅人の位ではたとえ監督のためといえども天上の儀式に参加することは許されない。 「最後はお前の言う通り、白にして良かった」  丕緒は院子の外を見やった。巨大な峡谷に冬の陽が落ちて行こうとしている。一年で最も命短い太陽が滑り落ちて行く先には、新王を迎えたばかりの堯天《ぎょうてん》の街が垣間見えた。蕭蘭《しょうらん》が植えた梨は葉を落とし、新しい春を待って眠りについている。 「……のようでしたか?」  青江の声はごく小さく、呟くようで、だから聞き取れはしなかったのだが、丕緒には青江が何を言ったのか分かった。蕭蘭が待ち望んでいた春のあの景色だ。真っ白な梨雲《りうん》が谷間に懸かり、風が吹けば一斉に花弁が舞う。記憶にあるそれを見ているかのように、青江の目は谷底に向けられていた。  ああ、と丕緒は頷いた。  その夜だった。丕緒が青江や工手《しょくにん》たちと祝杯を挙げているところに、射鳥氏《せきちょうし》が飛び込んできた。興奮したように顔を赤らめた遂良《すいりょう》が、王がお召しだ、と言う。  実を言えば、丕緒は何も聞きたくなかった。丕緒は自らの作った景色に満足していた。他者の評価は邪魔だとしか思えなかったが、拒むことなど許されるはずもなく、舞い上がった遂良に引きずられるようにして再度雲の上に向かった。路門を越えたところで天官《てんかん》に引き渡され、王が待つという外殿《がいでん》へ向かう。道行きは気が重かった。外殿へ向かうのは、これで二度目だ。前回の失望が、意味を持たなくなった今も胸に甦って苦い。  外殿は朝議に用いる巨大な宮殿で、中央には玉台《ぎょくだい》が聳《そび》え、周囲を御簾《みす》に遮られている。丕緒は天官に促されるまま御前に進み、その場に叩頭《こうとう》した。御簾の中から顔を上げるよう声があったが、男の声なので王の言葉ではあるまい。言われるままに頭を上げると、同じ声が天官に下がるよう言い、そして丕緒に、立って間近まで来るように言う。  丕緒は戸惑いながら身を起こした。広大な宮殿の中には、いまや丕緒一人しかいない。灯火も玉座の周辺にしかなく、丕緒のいる場所からは建物の端が見えなかった。あまりに巨大な空洞の中で、自分の存在はいかにも頼りない。おそるおそる御前に進み、言われるまま跪いて一礼する。 「……あなたが羅氏《らし》か?」  今度は若い女声がした。声の持ち主は近かったが、御簾のせいでその姿は一切、窺《うかが》い知れなかった。 「左様でございます」 「射儀はあなたが直々に采配をするのだと聞いた。不世出の羅氏だとか」 「評価については存じませんが、私が羅人と共に陶鵲を作らせていただきました」  そうか、と若い王は呟く。少し言葉を探すように声が途絶えた。 「……申し訳ない。わざわざ来てもらったが、実を言うと、何をどう言えばいいのか分からない。ただ……」  固唾《かたず》を呑んだ丕緒に向かい、王は言う。 「……胸が痛むほど美しかった」  どきりとした。思わず澄ました丕緒の耳に、ごく微かな溜息が届いた。 「忘れがたいものを見せてもらった。……礼を言う」  真摯な声を聞いた瞬間、どうしてだか丕緒は、通じたのだ、という気がした。陶鵲でもって何を語ろうとしたわけでもなかったが、たぶん王はあれを作った丕緒の——蕭蘭の、青江の気分を理解してくれた。 「身に余るお言葉でございます」  一礼しながら、これでもういい、という気がしていた。本当に職を辞そう。丕緒がやるべきことはこれで終わったと思う。後は青江に任せればいい——そう思ったときに、さらに声がした。 「次の機会を楽しみにしている」  いえ、と答える間もなく、新王は言葉を継いだ。 「……できれば一人で見てみたかったな。鬱陶しい御簾など上げて。もっと小規模でいいから、私と——あなただけで」  王の声は飾り気もなく率直だった。それを聞いた途端、丕緒の脳裏に浮かんだのは夜の廷だった。月か篝火《かがりび》か——明るく照らされた廷には、誰の姿もない。射手も物陰に潜み、その場に佇むのは自分だけ、見守るのは王だけ、言葉もなく歓声もないただ静かなだけの廷に、美しく陶鵲が砕けていく。  丕緒は陶鵲をもって語る。王はそれに耳を傾ける。語り合いたい、と王の言葉は言っているように思われた。  鳥は白だ、と丕緒は思った。夜目に明るく、砕ければその破片が篝火を受けて輝く。夜の海が月光を照り返すように舞い降りていく。ならば音は潮騒のような音だ。眠りに誘うような静かな微かな潮騒の音——。  丕緒はその場に深く叩頭しながら、脳裏に一羽の白い鳥を見ていた。潮騒の中を飛ぶ最後の一羽。その一羽は射手の矢を避けて、まっすぐ王の膝許に飛んでいく。この王なら、それを不吉だと言って拒んだりはすまい。 「……お望みとあれば、いつなりと」  丕緒は答えていた。  ——慶に新しい王朝が始まる。 [#地付き](『yom yom vol.6』収録) [#改ページ] [#ページの左右中央]   落照の獄 [#改ページ]       1 「——父さまは人殺しになるの?」  唐突に背後から訊かれ、瑛庚《えいこう》はぎくりと足を止めた。刃物を突きつけられた思いで振り返ると、彼のすぐ後ろに小さな娘が佇んで、幼い眼を向けてきていた。  園林《にわ》から戻ってきたのだろう、走廊《かいろう》を横切る途中で立ち止まったふうの娘は、小さな両手で披璃《はり》の水盤を捧げ持っている。透明な水盤の中には清い水が湛《たた》えられ、真っ白な睡蓮の花が一輪、浮かんでいた。夏の終わり、強い陽射を軒に切り取られ、走廊には濃い影が落ちている。娘の胸元に浮かんだ白い花が、ぽうっと光を灯したようだった。 「どうした」  ぎこちなく笑みを作って、瑛庚は娘に向かって身を屈めた。 「私は人を殺したりせんよ」  頭を撫でると、李理《りり》は澄んだ眼で瑛庚を見る。物言いたげな様子でしばし瑛庚を見上げてから、こくんと一つ頷いた。水盤の中の蓮が揺れる。 「母さまに持っていくのかね?」  瑛庚が水盤を目線で示すと、ぱっと李理は笑みを浮かべた。屈託のない幼い笑顔だった。 「蒲月《ほげつ》兄さまに。今日、茅《ぼう》州からお戻りになるって」  そうか、と瑛庚は微笑んだ。 「気をつけて行きなさい」  瑛庚の言に、娘は頷いて真剣な面持ちで歩みを始めた。水盤の水を零《こぼ》さぬよう注意しながら、大事業に臨むような貌《かお》で歩いていく。  なんとなくその後ろ姿を見守っていると、娘は走廊の階《きざはし》を院子《なかにわ》へと降りていく。白い切石を敷き詰めた院子を三歩ほど進み、深い軒が作る影を出た。真っ白な陽射の中に歩み出た途端、すっと娘の姿が光に溶けた。  輪郭が白く霞み、小さな後ろ姿は半ば透けている。それが消え失せるように遠ざかっていく。  思わず呼び止めようとして、瑛庚は辛うじて思い留まった。  ほんの一呼吸の間に光に眼が慣れた。四方を建物に囲まれた小さな院子には、陽光がいっぱいに注がれている。その中を色鮮やかな襦裙《きもの》を纏《まと》った幼い娘が、依然として生真面目そうな面持ちで、そろそろと水盤を運んでいた。  ほっと息をついた瑛庚だったが、胸の中に痛みを感じた。ほんの一瞬、光に幻惑されて娘を見失った刹那の喪失感が、重く硬く、痼《しこ》りとなって残っていた。  李理は八歳になった。そして、芝草《しそう》に住むあの子供も八歳だった。子供の名は駿良《しゅんりょう》、おそらくは今、芝草で最も有名な子供だ。  ——狩獺《しゅだつ》という人非人に殺されたことによって。  世界北方にある柳《りゅう》国の首都を芝草という。芝草は国の首都であると同時に、朔《さく》州の州都、さらには深玄《しんげん》郡と袁衣《えんい》郷、蓊《おう》県の、三つの行政府が置かれている。このうち袁衣郷|士師《しし》によって狩獺が捕らえられたのは、この夏の初めのことだった。  狩獺は芝草に程近い峠道で母子を襲った。二人を殺害し、荷物から金品を抜こうとしたところで、悲鳴を聞いて駆けつけた人々によって取り押さえられ、犯罪者を取り締まる士師に逮捕されたのだが、狩獺はこの他にも芝草近辺で起こった四件の殺傷事件について、犯人だと目されていた。推定される罪が重大であったため、狩獺の身柄は深玄郡の都庁に送られた。罪を裁き訴訟を裁く獄訟《ほうてい》は県以上の行政府に置かれているものの、五刑《ごけい》と呼ばれる重罪を裁くことのできる刑獄《けいごく》は郡以上の行政府にしかない。従って狩獺は袁衣郷を管轄する深玄郡秋官府に送られることになったのだが、ここで狩獺は犯人と目されていた四件の刑案《うったえ》ばかりでなく、十二件の刑案について罪を認めた。捕らえられる契機となった事件を含め、実に十六件。その全てが殺罪を含み、犠牲者は総計で二十三人を数える。二十三人のうちの一人が駿良だった。駿良は八歳、芝草で小店を営む夫婦の間に生まれた。ごく普通の明るく元気な子供——それが駿良に対する周囲の評価だ。そんな当たり前の子供は約二年前、家に程近や小路の物陰で屍体となって発見された。  駿良はその少し前、桃を買いに店舗を兼ねた家を出たばかりだった。付近にいた露天商は駿良を小路に引き込む男の姿を見ていた。男は何気ない仕草で駿良を引き寄せて小路に入り、すぐに一人で出てきた。様子に不審なところはなかったが、幼い頃から駿良をよく知る露天商は、男の顔に見覚えがなかったために誰だろうかと怪訝《けげん》に思った。そして、それからいくらも時を措《お》かず、通りがかった付近の住人が駿良の屍体を発見したのだった。哀れな子供は喉が潰れるほどの力で扼殺《やくさつ》されていた。  駿良を物陰に引き込んだ男が何者なのかは分からなかった。引き込むや否や相当の決意をもって殺害しているところから、殺すために小路に引き込んだことは確実だった。しかしながら、八歳の子供に殺される理由があったとは思えない。ただ、家を出るとき掌に握っていた小銭が周囲のどこからも見つからなかった。その額、わずか十二銭。  まさか十二銭のために殺されたわけではあるまい。だとしたら、なぜ駿良は殺されたのか。単に殺すために殺したとしか思えなかった。しかも殺されたのは家のすぐ近く、小店の並ぶ市井《しせい》の只中、そのうえ白昼のことで、付近には人通りも多かった。あり得ない凶行に芝草の民は騒然とした。  ——だが、駿良はその「まさか十二銭のために」殺されたのだった。  狩獺は、駿良が小銭を握って家を出るのをたまたま見ていた。それであとを尾け、物陰に引き込んでこれを殺し、掌に握り締めていた小銭を奪った。この十二銭で狩獺は一杯の酒を買って飲んだ。懐には先日老夫婦を殺害して盗み取った十両近くが入っていた。  深玄郡秋官の鞫問《とりしらべ》によってこれが明らかになると、芝草の民は愕然とした。あまりにも無意味な駿良の死に誰もが怒った。——これは瑛庚も例外ではない。  瑛庚には理解できない。柳国における平均的な市民の一月の収入が約五両だった。それに倍する金銭を懐に持っていた狩獺には、たかだか十二銭を奪う理由などどこにもなかったはずだ。しかも狩獺は成人の男だ。八歳の子供とは体格においても膂力《りょりょく》においても比べるべくもなかろう。物陰に引き込んだのなら、銭を出せと脅せばよかった。出さないなら、単に奪い取れば良かったのだ。にもかかわらず、狩獺は駿良を無造作に殺した。  しかしながら狩獺にとって、この無造作な犯行は常態に過ぎなかったのだ。駿良の死は二十三のうちの一でしかなかった。  ——十六件、二十三人。  瑛庚は書房《しょさい》の卓子《つくえ》に向かい、堆《うずたか》く積まれた書面に眼を通していった。そこには狩獺の罪状の全てが詳細に記されている。  事件の一つは芝草の隣にある小さな廬《むら》で起きた。夫婦と年老いた母、そして子供が二人殺された。昨年の末のことだった。廬の住人は極寒期には里《まち》に移る。これは廬が基本的に田畑を耕すために存在するからなのだが、彼らは冬の間里で暮らすための家を持っていなかった。子供が大病をした際、国から与えられたそれを売り払っていたのだ。廬の中で残っているのはこの一家だけだった。狩獺はその家に押し入り、一家を殺してのうのうとそこで暮らしていた。冬の最中、不便もあろうかと訪ねた隣人は、家の扉を叩き、見慣れない男に会った。男は至って愛想良く、一家は近くの里まで旅行に出かけた、自分は留守を預かっている親戚だと名乗った。——だが、隣人はそのときまで一家にそれほど親しくしている親戚がいるという話を聞いたことがなかった。怪訝に思いつつ里に戻り、気になって数日後に訪ねてみると、一家はまだ帰っていない、と言う。不審を感じた隣人は里府《やくしょ》に届け出た。里の役人が訪ねてみると、男の姿はすでになかった。家の中、臥室《しんしつ》の一つには、乱雑に一家の屍体が積まれて凍っていた。ただし、夫の屍体だけはそこになかった。役人たちは周囲を捜索し、家のすぐ裏手にある沢に遺体が放置されているのを見つけ、そして激怒した。沢を横切るようにして置かれた遺体には、何度も往復した足跡が残っていた。一家を殺した男は、沢の向こうにある畑に行くため、凍った遺体を文字通りの橋として利用していたのだった。  親戚を名乗った男は、年の頃三十前後。痩せぎすで中背、黒髪に黒眼の特徴のない男だったが、右の蟀谷《こめかみ》に「均大日尹」の四文字を図案化した小さな刺青《いれずみ》があった。黥面《げいめん》——すなわち、刑罰として刺青を施されている。  殺罪などの重罪を犯した犯罪者は、髪を剃られ、頭に刺青を施される。この刺青は十年ほどで次第に消えるが、消えないうちにその者が再び重罪を犯したとき、頭に二つめの刺青が入れられることになる。それがさらに重罪を犯せば、今度は右の蟀谷に墨を入れられた。刺青は必ず四文字を図案化したもので、その文字を見れば、どこで裁かれた何者なのかが分かる。「均」は均《きん》州において裁かれたことを示し、「大」は年を、「日」は徒刑《ちょうえき》に服した圜土《かんごく》を示している。「尹《いん》」はこの男に当てられた文字だ。これによって、この男もすぐに素性が知れた。通称を狩獺、姓名は何趣《かしゅ》。柳国北方にある道州の生まれで、道州、宿州、均州の三州において裁かれていた。罪状はいずれも殺罪。最初の一件は金銭を奪おうと殴った相手が結果として死亡したというものだったし、宿州での一件も、やはり金品を奪おうとして揉み合ううち、相手を死亡させたというものだったが、均州の一件だけは最初から決意をもって殺している。動機はやはり金銭だった。  書卓《つくえ》に広げた記録を読み進めながら、瑛庚は幾度も溜息をついた。  徒刑は懲罰であると同時に、犯罪者に罪を自覚させ教化するために存在するが、狩獺に関して言うなら、徒刑が何の意味も持たなかったことは明らかだった。均州で裁かれ、徒刑六年を終えて市井に放たれ、わずか半年で次の凶行に及んだ。以来、ほぼ二年の間に十六件の罪を重ねた。  これらの罪により、狩獺は深玄郡秋官|司法《しほう》によって裁かれた。ただし、狩獺のような重罪人の場合、最低でも一度はさらに上位の行政府によって論断《しんり》が行なわれることになっている。則《のり》に従い、狩獺の身柄は州司法に送られた。狩獺はここで再度|決獄《はんけつ》を受けたが、州司法に躊躇《ためら》うところがあって、さらにその身柄を国府へと送られることになった。狩獺は国によって三度《みたび》裁かれることになる。裁くのは司法、その下に置かれた司刑《しけい》、典刑《てんけい》、司刺《しし》が合議をもって論断し、最終的に司刑が決を下す。  ——つまりは、瑛庚が裁かねばならない。       2  夏の終わりの陽は緩やかに傾いていく。憂鬱《ゆううつ》な気分で記録を読んでいると、陽が翳《かげ》った頃、妻の清花《せいか》が灯火を持ってきた。 「休憩なさらなくて大丈夫ですか」  書房《しょさい》の燭台に火を移しながらそう問う。うん、と瑛庚《えいこう》が生返事をすると、 「……やはり殺刑《しけい》はないのですね」  低い声でそう訊いてきた。瑛庚は驚いて顔を上げ、書状を置いて妻の若やいだ顔を見た。茜色の灯火に照らされ、清花の白い顔は上気したように朱を帯びている。にもかかわらず、その表情は硬かった。 「李理《りり》が、貴方は狩獺《しゅだつ》を殺さない、と言っていました。それが結論なのですか」  清花の口調には責める色が滲《にじ》んでいた。瑛庚は無理にも笑みを作る。 「何の話だね? 李理は、私に人殺しになるのか、と訊いたのだ。だから違うと」 「分からない振りをなさらないで」  冷ややかに言われ、瑛庚は押し黙った。もちろん瑛庚自身、李理に問われたとき、それが何を意味する問いなのかは分かっていた。このところ、芝草の民の全てが司法府を注目していた。他の官府も例外ではなく、官府官邸で働く奄奚《げなんげじょ》までが司法を注視している。——狩獺が殺刑に処せられるか否かで。  狩獺は最初、深玄《しんげん》郡司法によって裁かれた。結論は大辟——すなわち殺刑だった。狩獺の身柄は朔《さく》州司法に送られたが、ここでも結論は大辟だった。ただし論断《しんり》は紛糾し、決獄《はんけつ》は出たものの国に判断を仰ぐべきだとの意見が趨勢《すうせい》を占めた。よって狩獺の先行きは国府司法に——瑛庚らの手に委ねられることになったのだった。  ここで瑛庚が殺刑との決獄を出せば、それで刑は確定する。狩獺は殺されることになる。李理は官邸で働く誰かからこれを聞いたのだろう。それで「人殺しになるのか」と訊いたのだとは想像がついていた。李理にはまだ、殺人と殺刑の違いなど分かるまい。 「狩獺のことを言ったわけではないのだ、本当に。だが……確かに、殺刑を命じれば私が殺すようなものだ。李理はさぞ辛く感じるだろう」  心優しい聡《さと》い子だ。幼いなりに胸を痛めるのに違いない。——そう思ったとき、清花が強い声を上げた。 「けれども李理のことをお考えになるなら、貴方はあの豺虎《けだもの》を殺刑にするべきです」  瑛庚は驚いて妻の顔を見た。清花は官吏ではない。身分のうえでは胥《げかん》の職を得ていたが、これは瑛庚の世話をするという名目で便宜上与えられている身分に過ぎなかった。官吏でない家族を仙籍に入れるための方便であり、清花自身は政《まつりごと》に一切、関わりを持っていない。これまでは瑛庚の仕事に口を挟むこともしたことがなかった。 「どうした、急に」 「あの豺虎は子供を殺しました。犠牲者の中には赤児さえおります。李理を可愛くお思いになるなら、同じく可愛く思う我が子を殺された者たちの無念もお考えください」 「それは、もちろん——」  言いかけた瑛庚を清花は遮った。 「いいえ。私には分かります。貴方は迷っておいでです」  事実だったので、瑛庚は黙り込むしかなかった。確かに瑛庚は迷っている。躊躇している、と言ってもいい。 「なぜ迷う必要があるのですか。何の罪もない人々を無慈悲に殺した豺虎に、果たして情けが必要でしょうか」  清花に言われ、瑛庚は思わず苦笑した。 「これは別に、情けの問題ではないよ」 「情けの問題ではないと言うなら、なぜ殺刑ではいけないのです? もしもあの豺虎に殺されたのが駿良《しゅんりょう》ではなく李理だったら——」 「そういう問題でもないのだ」  瑛庚は年若い妻を諭すように言った。清花は瑛庚にとって二度目の妻だった。外見において瑛庚よりも二十は年下に見える妻は、その実年齢において八十近い開きがある 「では、どういう問題なのです?」  清花は表情を強張《こわば》らせた。このところ頻繁に見る顔だ。 「……お前には理解しにくいかもしれないが、法は情では動かないのだ」 「では、あの豺虎に理があると仰《おっしゃ》るのですか」 「そういうことでもない。——狩獺の行為は許されるものではないし、情けをかける余地もなかろう。清花の怒りも民の怒りもよく分かる。狩獺を憎く思うのは私も同じだ。だが、殺刑というものは、許せないから殺してしまえという、そんな簡単なことではないのだ」  できる限り穏やかに柔らかく言ったつもりだったが、清花の表情は険しくなるばかりだった。瑛庚を射るような眼差しで見る。 「貴方はそうやってまた私を、ものの道理の分からない愚か者のように扱うのね」  凍てついたような低い声だった。 「そんなことは——」  ない、と言いかけた言葉を清花は遮った。 「貴方は、芝草《しそう》でこのところ、子供が消える事件が続いていることを御存じですか」 「噂には聞いている。だが、それは狩獺の犯行ではないよ」  分かっています、と清花は声を尖らせる。 「どこまで莫迦《ばか》者のように思っていらっしゃるの? すでに囹圄《ろうや》に捕らえられているのだから、もちろん狩獺は関係ないわ。私が言っているのは、近頃芝草では、そんな嫌な事件ばかりが起こる、ということです」 「ああ——」 「春官府の下官の邸で、奄奚が皆殺しに遭ったことは御存じでしょうか。奄《げなん》の一人が主人から叱責されたことを怨《うら》んで、その怒りの鉾先《ほこさき》を主人に向けずに一緒に働く同輩に向けたのですわ。このところの柳はそんな話ばかりです。この国は、いったいどうしてしまったのでしょう」  これに対して、瑛庚は黙り込むしかなかった。近頃、理解しがたい事件——しかも凶悪な事件が頻発していることは事実だった。 「私には世が荒《すさ》んでいるように見えます。ここで狩獺のような豺虎を赦すことは、民に罪を勧めるようなものでしょう。厳罰が必要なのではありませんか? 人を殺せば自らも殺されるのだと、広く知らしめる必要がありはしないでしょうか」  瑛庚は憂鬱な気分で息を吐いた。 「だが、それで狩獺のような輩《やから》が罪を思い留まることはないのだよ」  清花は意外そうに瑛庚を見る。 「実は殺刑には、犯罪を防ぐ効果などないのだ。残念ながら、刑罰を厳しくすれば犯罪がやむというものではない」  諭すように言うと、清花は口許を歪めた。 「では貴方は、李理が殺されても犯人を赦しておしまいになるのね」 「そうは言っていない。それとこれとは話が別だと言っている。李理に何かあれば、私は犯人を赦さない。だが、それと司法官として法を運用することは別なのだ」  思わず声を荒げた。清花は何かを言いかけ、そして蔑《さげす》むように瑛庚を見る。 「話が別だから、もしも李理が殺されたとしても、あなたはその犯人を殺刑にしてはくださらない、ということね」  そうじゃない、と言いかけたが、清花はくるりと背を向け、足早に書房を出ていった。いつの間にかあたりはすっかり暮れ、冷ややかな夜風に乗って虫の声がしていた。  瑛庚は消えてしまった妻の背に向かって呟く。 「……そういうことではない」  法には情の入り込む余地はない。あってはならない。だから、李理が殺されたのであれば、当然、瑛庚はその刑獄からは外される。それが司法というものなのだ、と言いたかった。だが、言ったところで清花は納得すまい。おそらくは、刑案を担当する司刑に殺刑を願うことはないのか、という話になるだけだろう。そうすれば瑛庚は、心で願っても実際に言うことはできない、と答えざるを得ない。  瑛庚は深い溜息を落とし、浮かしかけた腰を椅子に下ろした。書卓《つくえ》に肘をつき、軽く額を押さえる。  愚か者のように扱っているつもりはない。少なくとも、瑛庚は妻を愚かだとは思っていなかった。だが、実際問題として法は情では動かない。法はそういう次元で動かしてはならないものだ。どう説明すればいいのか——考えて、瑛庚は途方に暮れる。  清花は決して愚かではないし、実際の生活の場面ではむしろ賢く聡いと思う。だが、彼女は情を措いて理のみでものを考えることができなかった。清花自身は、自分にも道理が分かると主張するが、彼女の道理は彼女の情が即ち道であることを大前提にした「道」理であることが多い。それは必ずしも道ではない、と言うと、情を欠いた道などあり得ないはずだ、と清花は反駁《はんばく》する。  清花によれば、瑛庚は情を欠き、官吏の弄する功利的な理屈を道だと勘違いしている。分かっていないのは瑛庚のほうで、にもかかわらず高官の常で、無位の自分を愚か者扱いする。  清花はこのところ、そう言って怒ることが多かった。怒ったあげく、別れたいと言い出す。婚姻を解消し、仙籍を返上し、市井の民に戻りたいと言うのだ。  瑛庚には、どう語れば清花の理解を得られるのかが分からない。瑛庚は職責柄、理を措いて情のみで物事を語ることが得手ではない。そのせいだろう、宥《なだ》めようとすればするほど清花を怒らせるのが常だった。だとしたら清花はいずれ去っていく。——最初の妻がそうであったように。恵施《けいし》が最後に残した言葉は、「私は貴方が思うほど愚かじゃない」だった。  二人の妻から同じ言葉を投げつけられる、ということは、実は二人のほうが正しいということの証左なのかもしれない。  鬱々と考える視線の先には、悲惨な犯罪の経過を書き留めた記録があった。  被害者は駿良、八歳。そして李理も八歳になった。それを思うと、いたたまれない気分になった。走廊《かいろう》で李理と別れて以来、胸の中には依然として痼りが留まっている。それは何度溜息をついても吐き出すことができなかった。       3  その夜半になって、書房《しょさい》を訪《おとの》う者があった。 「まだお休みにならないのですか」  言って書房に顔を出したのは蒲月《ほげつ》だった。清花《せいか》かと緊張した瑛庚は、少し安堵して肩の力を抜く。そうして李理《りり》が、蒲月が今日戻ってくると言っていたのを思い出した。 「今頃に戻ってきたのか? 李理はずいぶんと心待ちにしていたようだが」  はい、と蒲月は笑む。両手に茶器を揃えた茶盤《ぼん》を捧げ持っていた。 「戻ったのはもっと以前です。李理にひとしきり相手をさせられましたよ。司刑《しけい》はお忙しいようだったので、声をおかけしませんでした」  そうか、と瑛庚は笑った。李理は「兄さま」と呼ぶが、蒲月は瑛庚の息子ではない。孫だ。  瑛庚は五十を目前に地方官から州官へと抜擢《ばってき》されて昇仙した。最初の妻である恵施《けいし》との間に二男一女があったが、長男長女はその頃には成人して独立していた。瑛庚が昇仙したとき、共に昇仙することも可能だったが、すでに婚姻して伴侶を得ていた二人は地上に残ることを選び、そしていつの間にか瑛庚よりも老いて死んでいった。当時まだ成人に達していなかった次男だけは瑛庚の手許に残り、そののち朔《さく》州の少学《しょうがく》を出、官吏になって昇仙した。今はこの柳国の西にある茅《ぼう》州で州官を勤めている。この次男が得た息子が蒲月だった。祖父である瑛庚を頼って芝草《しそう》へやってきて、父親と同じく朔州の少学に入った。父親より——そして祖父の瑛庚よりも遥かに優秀だった蒲月は、そのまま大学へと進むことが叶い、昨年卒業して国官になった。ようやく役目にも慣れ、休みを取るゆとりができて、茅州の父親に挨拶をしに行ってきたところだった。 「少し休憩なさってはいかがです?」  蒲月の言葉に、瑛庚は頷いた。窓辺に置いた方卓《つくえ》に移る。蒲月がそこに茶器を並べた。 「気を使わせたようで済まないな」  瑛庚が言うと、蒲月は首を振る。 「司刑は今、大変なときなのですから」  国官に登用され、蒲月の瑛庚に対する態度は改まった。蒲月は天官|宮卿補《きゅうけいほ》で、王宮の制令を掌る宮卿の補佐官だ。位にして国官の中では最下位にあたる中士《ちゅうし》だが、瑛庚は秋官司刑。位は下大夫《かたいふ》、高官の部類に入る。  蒲月は茶器に湯を注ぎながら、 「姉上が機嫌を損ねていらっしゃいましたよ」  蒲月は清花を姉と呼ぶ。祖父の妻だが、見かけの年貌《よわい》はその頃合いだった。 「司刑は狩獺《しゅだつ》を赦す気だ、と言って」 「そんなことを言ったつもりではないのだが。……難しいな」  蒲月は問うように瑛庚を見る。瑛庚は苦笑した。 「情だけで狩獺を裁くことはできない、と言ったのだ。そもそも狩獺の論断《しんり》は、まだ始まってもいない。確かに、最終的に刑を定めるのは私の職分だが、それまでに典刑《てんけい》、司刺《しし》と充分に合議せねばならない。まだ結論を出す段階にないし、たとえ胸の内にあったとしても漏らすはずがなかろう」 「……もっともです」  蒲月は頷いたが、どこか問いかけるような眼をしていた。瑛庚は首を振り、話を打ち切る。旅から戻ってきたばかりの蒲月に、茅州のこと、父親のことを尋ねたが、心はその会話の上になかった。重い痼りが胸の中にある。  清花が狩獺を殺刑にせよ、と言うのはもっともなのだろう。清花だけではない。民はなべてそう言っているし、それは瑛庚にも聞こえている。瑛庚とて、個人の心情としては異論がない。だが、司法官としては殺刑に躊躇を覚える。同様に躊躇したからこそ、州司法も国へ刑案《うったえ》を送ってきたのだ。  それは狩獺の問題ではなかった。——問題は、現|劉《りゅう》王が登極して百二十年余、その間、百年以上にわた亘《わた》って柳では殺刑が停止されていた、そのことにある。  どんなに凶悪な罪人でも無期の徒刑《ちょうえき》または終生の拘制《きんこ》。殺刑は法の上では存在するが、選択肢としては存在しない。これまでずっとそうだったのだ。 「主上の宣旨はないのですか」  問われて、瑛庚ははたと我に返った。いつの間にか蒲月を前にしたまま考え込んでいたらしい。蒲月は困ったように微笑む。 「大辟《たいへき》を用いず、と定められたのは主上でしょう。主上の御意向はいかがなのです?」  それは、と言いかけて、瑛庚は口を噤《つぐ》んだ。すっかり冷めた茶器が掌の中にあった。 「出過ぎたことをお尋ねしているのでしたら、お許しを。ただ、私は何を聞いても決して他言はいたしませんよ」  柔らかく言われ、瑛庚は息を零した。蒲月は今でこそ宮卿補だが、大学を終えて国官に抜擢された以上、これから高官へと位を進めていく。ならば狩獺の件について了解しておくことは必要であろうという思いがあり、同時に蒲月ならば分かってくれるだろうという思いがあった。 「……それが判然としないのだ」 「判然としない?」  瑛庚は頷いた。 「殺刑を停止なされたのは主上だ。にもかかわらず、郡司法、州司法の判断は殺刑、国はこれに倣《なら》うものではないが、考慮はせざるを得ない。それで司法を通じ、主上に御意向をお尋ねしたのだが、司法に任せると仰ったのだそうだ」  蒲月は怪訝そうにする。 「司法に、ですか」 「役職としての司法のことを言っておられるのか、司法官——つまり司法以下、刑獄に関わる我々のことを言っているのかは分からない。あるいは秋官に任せるという意味なのかもしれない。曖昧に過ぎ、しかも主上の『大辟を用いず』というお言葉がある以上、それだけでは我々も身動きができぬ。宣旨をいただきたいと申し上げているところだ」 「大司寇《だいしこう》、小司寇《しょうしこう》はいかがなのです?」  瑛庚は頭《かぶり》を振った。 「大司寇は断固として殺刑はならぬ、というお立場だ」 「大司寇が是とされないのであれば、殺刑はないのでは」 「とは限らない。もともと論断は余人の意見に拘束されない。さらに主上が我々に任せると仰るのであれば、今回の刑案に関しては、司法の判断が結論になる」 「司法——知音《ちいん》さまの御意見は」 「苦慮しておられる。小司寇も、だ」  刑獄に罪人が引き出されたとき、そこで問題になるのは罪人がどんな罪を犯したかだ。罪が明らかになれば、刑辟《けいほう》によって刑罰も自ずから明らかになる。典刑が罪を明らかにして刑罰を引き当てることを刑察という。  狩獺が犯したのは主として殺罪。予《あらかじ》め殺さんと謀《はか》って実行した賊殺《ぞくさつ》が大半を占める。しかもその多くは金品を強奪しようとしての犯行で、あえて殺す必要のない者までも殺している。狩獺の犠牲者は抵抗できない老人や女子供が圧倒的に多い。私利のための賊殺、無意味な賊殺、弱者に対する賊殺、そのどれをとっても法の上では死罪。しかもこれが複数あるのだから、これは殊死《しゅし》——すなわち、死罪の甚《はなは》だしく赦《ゆるし》から除外されて必ず死に処するべき死罪に相当する。  刑察が定まったうえで、罪を割り引く要因があれば刑罰は軽減されるが、狩獺には罪を割り引く要因がなかった。本来ならば大辟、これはあまりにも明らかだ。  だが、柳では劉王自身が「大辟はこれを用いず」と定めている。大辟に相当する罪人はなべて徒刑《ちょうえき》または拘制《きんこ》、そもそもが殊死に相当することを思えば終生の拘制、それが当然の判断というものだった。  にもかかわらず民は殺刑を求める。もともと狩獺のような罪人でも拘制か、と憤慨する声が高かったところに、郡司法、州司法が殺刑と決獄《はんけつ》を下してしまった。殺刑もあり得ると知った民は、殺刑以外はない、と言う。王の言葉を引いて「大辟は用いず」とすることは可能だが、それをすれば民は司法に対して不満の声を上げるだろう。場合によっては怒った民が国府に殺到することもあり得た。暴動を危惧《きぐ》せざるを得ないほど、民の殺刑を求める声が大きい。さしもの司法官もこれを無視することは難しかった。  瑛庚がそう言うと、蒲月は困ったように呟く。 「……確かにそれは、難しい問題ですね」  だろう、と瑛庚は息をついた。困り果ててはいるのだが、蒲月に「難しい」と言ってもらえたことで救われた気分がしていた。 「姉上も強調しておられましたが、このところ、芝草の治安は悪化しています。民が殺刑にせよと声高になるのは、それに対する不安もあるのでしょう。厳罰を範として秩序を正さねば、さらに治安が悪化するのではないか、という」 「だろうな……」  確かに近年、芝草では犯罪数が増加している。——いや、芝草だけではない、国の治安が悪化しているのだ。実数の上では些少《さしょう》だが、これまでがよく治まっていただけに民はひどく不安に思っている。それと王の布《し》いた教化主義が結びつくのも無理はない。つまり、これまでの刑制《けいせい》が手ぬるかったのではないか、ということだ。  だが、瑛庚ら司法官は知っている。数の上では決して柳の犯罪は多くない。現王の登極以来、犯罪自体は明らかに減っていた。王の意向によって殺刑が停止されてからも、犯罪が増えたなどという事実はなかった。とくに王が殺刑に代え、他国では得てして廃止されている黥面《げいめん》を復活させてから、犯罪者の数は著しく減った。  罪人の顔に刑罰として刺青を入れることは、罪人の更生を妨げると言われている。少なくとも奏《そう》で廃止されて以来、他国でも廃止が趨勢だった。王朝によって復活することもあるが、基本的に黥面は仁道《じんどう》に惇《もと》るというのが常識で、ゆえに柳国においてもずいぶんと以前に廃止されている。だが、王はあえてそれを復活させた。ただし、二度は頭に入れる。これは髪が伸びれば刺青を隠すことができるからだった。罪人は罪人としての烙印を隠すことができ、しかもこれは十年ほどで消える。冬官に消えるよう工夫させた墨を使うのだ。これを特に沮墨《そぼく》と言う。  沮墨は最初こそ黒々としているが、次第に色を薄めていく。黒から藍へ、藍から青へと薄まっていき、青から紫、薄赤を経て十年ほどでほぼ見えなくなる——本人の肌の色によって多少の前後はあるが。ゆえに罪人が真摯に反省し、以後罪を遠ざけていられれば、いずれ罪なき者に戻ることができるわけだ。  だが、罪を繰り返せばそれは三度目から隠しようのない場所に施される。三度目は右の蟀谷《こめかみ》、四度目は左の蟀谷、以後、右目の下、左目の下と場所が決まっているが、四度以上黥面に処せられる者は滅多にいない。というよりも、黥面四度に及べば、これを刑尽《けいじん》と言って、全ての刺青が消えるまでの徒刑、あるいは拘制に処せられることになる。沮墨は一つだけなら十年ほどで消えるが、まだ消えないうちに次の墨が入れられると、消えるまでの期間が延びていく。黥面四度ともなれば最低でも三十年は消えない。他の刺青の濃さとの兼ね合いもあるが、全ての刺青が黒々としている状態ならば、ほぼ終生消えることはないと思って間違いない。消える前に罪人の寿命のほうが尽きてしまう。  最初こそ黥面によって罪人が民から虐《しいた》げられ、それが更生を妨げるのではないかと危惧されていたが、意外にこれは罪人の更生を助けた。反省した罪人は少しでも色が薄まるよう辛抱するし、民のほうも薄い刺青は本人の決意と努力の表れだと受け止める。黒い刺青が疎まれるのは致し方ないが、その間は国が手厚く援助するし、それが徐々に薄まっていけば国も周囲も褒めるから本人も前向きになる。実際、黥面三度に至った罪人の再犯率は劇的に下がった。  おかげで治安が悪化したと言われている現在においても、柳の凶悪犯罪は他国に比べ、格段に少ない。殺刑が行なわれている国と比べる必要すらないほどだ。これこそ、殺刑には罪を止める効力のないことの証左だが、民は常に近年の感触と今のそれを比べる。数年前まではこうではなかった、と言われれば、それはまさしく事実だった。 「単に治安が乱れているだけでなく、狩獺のような豺虎《けだもの》が増えている——そんな気がしませんか」  蒲月に言われ、瑛庚は溜息をついた。 「そのように見えることは認める」 「狩獺はすでに三度、裁かれています。悔い改めることなく新たに十六件もの罪を重ねた。これは、これまでのような刑罰では、狩獺のごとき罪人は正すことができないということなのでは」 「かもしれないが……」  国は罪人の更生のために手を尽くしてはいるが、罪を悔いることのない人間というのはいるものだ。まるで更生を拒むかのように援助に背を向け、あえて罪を繰り返す。——そういう者もいる、ということを、瑛庚は痛いほどよく知っていた。 「徒刑で駄目なら、それ以上の刑罰が必要だということになりませんか」 「私はなにも狩獺を殺刑に処することを躊躇っているのではない。問題は殺刑、それ自体にある」  蒲月は怪訝そうに瑛庚を見返してきた。 「ここで殺刑を用いることは、事実上の殺刑復活を意味する」  蒲月は意を掴みかねるようだった。 「お前の言う通り、国の治安は乱れているのだ。だからこそ、殺刑の復活には不安を覚える」 「なぜです?」 「……分からないか?」  瑛庚が問い返すと、蒲月ははっと息を呑み、怯《ひる》んだように眼を逸らした。  そう、蒲月も分かっているのだ。——なぜだかは知らない。けれども柳はこのところ、明らかに傾き始めている。妖魔が跋扈《ばっこ》し、天候も不順で災害が多い。刑罰が軽すぎるのではない。国が傾いているために人心が荒んでいるのだ。だから犯罪が増えている。  犯罪が増えているだけではない。瑛庚はこのところ国政の場において、齟齬《そご》を感じることが多い。以前ならまっすぐ進んでいたものが歪む。その理由は様々なのだが、総じて言えることは、国もまた荒んでいる、ということだ。こういうときこそ賢治で名高い王に正して欲しいのだが、このところの王は正す意欲を失っているように見えた。 「……主上はどうなさってしまわれたのでしょうか」  蒲月が呟く。 「それは天官であるお前のほうが詳しいのではないのか。天官はどう言っている」 「それが……分からないのです。主上が著しく度を失っておられるとは思えません。道を失しておられるようには見えない、と」 「しかし、明らかに主上は以前と変わられた」  蒲月は頷いた。 「これは私の言葉ではございませんが、ある方は、主上は無能になられた——と」  あまりの言葉に瑛庚は蒲月を叱ろうとしたが、同時にその通りだ、と思った。決して王が無慈悲になったわけでも邪《よこしま》になったわけでもない。民を虐げる王などいくらでもいるが、劉王が民を虐げようとしているとは思えなかった。にもかかわらず、国政が歪んでいる。そう——確かに王の施政に対する手腕が衰えているのだ。  瑛庚は溜息を落とした。 「主上がどうされてしまったのかは、我々などでは知りようもない。ただ、信じたくはないが、国が傾き始めていることは確かだと思われる。だとすれば、これ以後、人心はさらに乱れる。おそらくは狩獺のような豺虎が増えるだろう。もしもここで殺刑を復活させてしまえば、これ以後、殺刑が濫用《らんよう》されることになりかねない」  瑛庚が真に不安を覚えるのはこれだ。  前例ができれば、以後、殺刑を用いる躊躇は消える。世が荒み、狩獺のような犯罪者が増えれば、その度に殺刑が用いられるようになるだろう。一旦|箍《たが》が外れれば、以後、些細な罪にも殺刑が用いられるようになり、相対的に殺刑の衝撃力は薄まる。これで殺刑に処するならば、これより重い罪にはさらに重い刑罰を用いる必要がある。そうなれば芳《ほう》国のように無惨な刑罰が蔓延《まんえん》するまでいくらもかからない。そして、そうやって殺刑が濫発され、酷刑が増えれば増えるほど国はさらに傾いていく。  瑛庚がそう言うと、蒲月は頷いた。 「そう——確かにそうなのかもしれません」 「しかもその傾いた国が殺刑を濫用することになるのだ。ここで殺刑を復活させることは、傾いた国に民の生殺与奪の権を与えることに他ならない。前例があれば、国は自らの都合でいくらでも殺刑を濫発できる」  だからこそ、殺刑は避けたい。  避けることに問題はない。そもそも王の言葉がある。「大辟を用いず」——これを引いて拘制を宣言すれば済む。慣例によればそれが正道だ。だが、そうすれば民の司法に対する信が揺らぐ。  清花の冷ややかな眼が脳裏に蘇った。もしも瑛庚が殺刑を避ければ、清花は今度こそ瑛庚を見捨てて出て行くのかもしれなかった。——そしてそのように、民も司法を見限ってしまう。それはある意味で、殺刑の濫発に匹敵するほどの危機だ。 「……どうしたものか」       4  翌日、瑛庚《えいこう》が司法府に出仕すると、論断《しんり》のための堂室《へや》にはすでに典刑《てんけい》の如翕《じょきゅう》、司刺《しし》の率由《そつゆう》が揃っていた。どちらも共に思い悩み、それに倦《う》んだ気配がある。  三者が揃うと、それぞれが伴った府吏《げかん》は廂室《べっしつ》に退去する。刑獄《けいごく》の主催者たる司法もこの場にはいない。刑獄は刑案《うったえ》を担当する司刑《しけい》と典刑、司刺のみで運営される。彼らの判断に影響を与えかねないものは、一切が排除されることになっている。  最後の府吏が堂室の扉を閉めて出ていっても、しばらくは口を開く者がなかった。聞かずともその顔を見れば分かる。如翕も率由も困り果てている。 「……黙り込んでいても仕方ない」  やむを得ず、瑛庚が口を開いた。 「とりあえず典刑の意見を聞こう」  如翕は軽く息を吐いた。如翕は年貌《よわい》三十半ば、三者の中で外見上はもっとも若い。典刑である如翕は罪人の罪を明らかにし、刑辟《けいほう》に沿って罰を引き当てる。 「特に申し上げることはありません。郡司法、州司法から上がってきた鞫問《とりしらべ》が全てです。少なくとも州典刑はよく調べている。私から付け加えることはありません」  瑛庚は尋ねた。 「典刑は狩獺《しゅだつ》に会ったのだろう。狩獺はどんな男だった」 「豺虎《けだもの》です」  如翕の返答は短く、しかも吐き捨てる調子だった。よほど嫌悪に触れたのだろう、と了解してそれ以上は触れず、瑛庚はさらに問う。 「州典刑の記録では明瞭でない箇所がある。たとえば——近隣の廬《むら》で一家が殺害されているな」  動機を問われた狩獺は、行くところがなかったから、と答えていた。この直前、狩獺は殺害の現場を目撃されている。それで人目のある街を出て、無人の廬で冬を過ごそうと思った。だが、ここぞと眼を付けた廬には、たまたま住人がいた。それで一家を殺したというのだが、釈然としなかった。基本的に、極寒期の廬には人がいない。住人が邪魔ならば無人の廬を探せばよかったのではないか。近辺の廬のほとんどが空だったのだ。  瑛庚がそう言うと、如翕は、 「住人がいなければ食糧もないからです。薪《まき》の用意もない可能性がある。もともとは無人の廬に身を隠すつもりだったようですが、人のいる家を見て、そちらのほうが好都合だと思い直した、と」 「——好都合、か」  瑛庚は呟き、 「なるほどな。——狩獺は一家の遺骸をそのまま、同じ建物に留まっているが、せめて家を代えようという気にはならなかったのだろうか」 「季節柄、臭うわけではないので、必要を感じなかったそうです」  無言で耳を傾けていた率由が溜息をついて頭を振った。その気持ちは瑛庚にも分かる。しかしながら、これが狩獺という男なのだろう。恐ろしく歪んではいるが、合理的だ。だが、だとすると余計に分からないことがある。 「駿良の件だ。なぜ十両近い金銭を懐に持っていながら、狩獺は駿良を殺して、たかだか十二銭を奪ったのだろう」 「答えません。言を左右して明確なことを言わないのです」 「何かを隠しているのだろうか? ならばそれは明らかにする必要があるが」 「分かりません。殺害そのものについては、騒がれると面倒だと思った、と申しております。ただし、そもそもなぜ十二銭を奪おうと思ったのか、これについては本人も何となく、としか言わないのです」  そうか、と瑛庚は呟いた。 「州典刑は駿良の件を賊殺《ぞくさつ》としているが、これはどうか」 「……私としては疑問が残ります。最初から殺すつもりであとを尾けたのか、それとも最初は小銭を奪うだけのつもりだったのか。最初から殺すつもりがあったのであれば賊殺ですが、単に小銭を奪うためにあとを尾け、騒がれることを恐れて殺したのであれば闘殺《とうさつ》でしょう」 「本人はどう言っている」 「小銭を奪うつもりだっただけ、とは申しております」 「しかし、まったく殺すつもりがなく、騒がれることを恐れたのであれば人気《ひとけ》のない場所に着くまで待ったのではないか」 「それはないかと。——狩獺は駿良が近所の小店に桃を買いに行くのだということを知っていました。家の店先で母親とそう話していたのを聞いていたのです」  子供は家を出ようとしていた。母親は呼び止め、ちゃんと金銭を持っているのか訊いた。これに対して、駿良は掌を開いてみせた。  ——桃一つが四銭でしょ、三つで十二銭。ちゃんと持ってるよ。 「駿良の家は裕福ではありません。八歳の駿良に小遣いをやるほどの余裕はありませんでした。ですから駿良は、小遣いが欲しければ両親の手伝いをして駄賃をもらうしかなかった。父母を手伝って、そのたびに一銭の駄賃をもらっていたようですよ。十日ほどかかって十二銭、貯めたのです。どうしても桃を食べたかったとかで」  如翕は悼《いた》むように言う。 「自分に二つ、妹に一つ、それが駿良の望みだったのです。だから両親を手伝い、もらった駄賃を辛抱強く貯めていた」  瑛庚は頷いたが、胸の中で再び痼が疼《うず》いた。やっと貯めた十二銭、母親はちゃんと持っているか問い、子供は——たぶん自慢げにそれを示した。誇らしげな幼い笑顔が見えるようだった。愛しく見つめる母親の貌も。微笑ましい会話だ。なのにこれが子供の運命を決した。 「狩獺はこの会話を聞いていました。即座に行動を起こさねば、駿長は人気のない場所を通ることなくすぐに小店に着いてしまいます。ですから、狩獺は駿良のあとを尾け、最初に通りがかった小路に子供を引き込んだのです」 「しかし、周囲の状況は一目瞭然だったろう。人目があることは分かり切っている。騒がれたくなければ、奪うに際して殺すことになるのは最初から分かっていたのではないか」  如翕は頷いた。 「そういうことになります。ですから州典刑は賊殺とみなしたのでしょう。ですが、私には釈然としないものが感じられます。はたして狩獺が、そこまで明確な殺意をもって駿良のあとを尾けたのかどうか。私には狩獺がもっと病んだ者に見えます。欲しいから奪おう、そう思って実行し、うまく奪うために結果として殺してしまう——そんな感じが」  ふむ、と瑛庚は唸《うな》った。如翕が言っていることはあまりにも微妙だ。だが、確かに賊殺とするのに躊躇を覚える気持ちは分かる。いずれ賊殺か否かを結論づけねばならないし、その際には印象論を持ち出すことはできないが、とりあえず論断初日から拘《こだわ》っても致し方あるまい。——そう思って、瑛庚は率由を見た。率由は年貌六十前後、瑛庚よりも物慣れた様子の老人だが、実年齢は三者の中でもっとも若い。 「司刺はいかがか」  司刺の職分は三赦《さんしゃ》、三宥《さんゆう》、三刺《さんし》の法を掌《つかさど》り、罪人に罪を赦すべき事情があれば、それを申告して罪の減免を申し立てることにある。三赦とは罪を赦すべき三者をいう。七歳以下の幼弱《ようじゃく》、八十歳以上の老耄《ろうもう》、判断能力を欠く庸愚《ようぐ》がそれだ。 「まず——三赦にはあたらない、これは論ずるまでもありませんでしょう」  率由は言い、これには瑛庚も如翕も頷いた。 「同時に、どの刑案も三宥にはあたらないと判ずるしかございません」  三宥とは、不識《ふしき》、過失、遺忘《いぼう》の三をいう。不識とは罪になることを知らなかったこと、あるいは結果として罪に至ることを了解していなかったことを言う。たとえば荷物を高所から投げ落とし、下にいる他者に当てて死なせてしまったとき、そこに人がいることを知らなければ不識になる。過失は過《あやま》ちを言う。荷を落とすつもりはなかったのに取り落としてしまった場合、あるいは、人を避けて投げ落とすつもりが手加減を過って当ててしまった場合がこれにあたる。遺忘は失念していたことをいう。荷を落とせば当たることを承知していながら、そこに人がいることを失念していた場合は遺忘になる。——だが、これらがいずれも狩獺に当てはまらないことは確実だろう。  瑛庚は溜息をついた。 「問題は三刺か……」  率由は頷いた。  三刺とは群臣に問い、群吏に問い、万民に問うことを言う。罪を赦すべきだという声があれば、これをもって罪の減免を申し立てる。率由は自らの職務に従い、広く六官に助言を求め、官吏の意見を聞き、民の声に耳を傾けていた。 「罪を赦すべきという声はありません。皆無です。民は総じて殺刑にせよと申しております。殺刑しかあり得ないと言うのです。群吏も概《おおむ》ね同様ですが、殺刑には及び腰になる者もおります。六官は、ほぼ慎重にせよと仰る。主上の意向を引く者が大半ですが、ここで軽はずみに殺刑を用いれば、殺刑の濫発に繋がるのではないかと危惧する声も相当数ございます」 「やはりな。……六官が慎重論を言ってくれるのは、ありがたいが」 「慎重論がある以上、三刺にあたらずとは申せません。ただ、民の怒りは激烈です。殺刑でなければ許さないという声も多い。司刑が助けるというのなら狩獺の身柄を自分たちに渡せとまで申します」  そうか、と瑛庚は呟いた。やはり、殺刑を避けるなら暴動を危惧する必要がありそうだ。暴動そのものは抑えることが可能だが、司法に対する怒り、国に対する怒りは抑えようがない。無理に抑えれば司法への信頼は崩壊し、国への信頼もまた崩れ去る。 「犠牲者の遺族はどうか」  瑛庚は訊いた。ときには犯罪の被害者や関係者が罪人の赦免を申し立てることもある。罪人が罪を悔いて被害者に詫び、場合によっては罪を贖《あがな》うことで改悛の情を認められた場合に起こることだが、これは三刺において絶大な効力を持っていた。 「赦免の申し出はありません。そもそも狩獺は犠牲者の家族に一切、連絡を取ってはいないようです。むしろ遺族からは、狩獺を殺刑にという嘆願が届いております。国府に日参する者もございます」  だろう、と瑛庚は思った。 「……遺族の憤りは想像できる。犯人を殺しても飽き足らないだろう」 「その通りです。実際、単なる斬首ではなく、芳《ほう》のように酷刑を用いよという声もございます。殺罪だけで十六件、犠牲者は二十三人に及びます。ゆえに凌遅《りょうち》に処して二十三刻みにせよと」  凌遅とは、罪人を寸刻みにする刑罰を言う。とにかく寸刻みにしていって絶命したら首を斬って曝すこともあれば、絶命寸前に腰斬《ようざん》または斬首にして息の根を止めることもある。国により時代によって様々だが、あらかじめ幾つ刻むかを定められる例もあり、これを引いて犠牲者の数だけ刻め、という声があるらしいことは瑛庚も聞いていた。このところの芝草《しそう》では、他国の酷刑を調べ上げ、狩獺を殺刑にするにふさわしい刑罰はどれか論《あげつら》うことまでが行なわれている。  如翕が憤慨したような声を上げた。 「凌遅にせよと言う者は、凌遅がどれだけ惨《むご》い刑罰なのか、分かっているのだろうか。あえて殺さず、小刀で肉を削いで行くのだ。いたずらに苦しみ、しかもその苦しみが長く続く。長く続くよう、故意に急所を避ける。他国の王の中には、さらに苦しみを長引かせるために、罪人を仙籍に入れる例もあった。それをせよという声まである」 「しかし凌遅は、他ならぬ狩獺が行なったことでございます」  率由の声に如翕は押し黙った。——そう、確かに狩獺はある夫婦を寸刻みにしている。隠した財を出させるため、妻の目の前で夫を寸刻みにしたのだ。その指を一本ずつ切り離し、耳を削ぎ、鼻を削いだ。肉を削ぎ、腹を刻み、痛みに耐えかねて夫が絶命すると、さらには妻も同じように刻んだ。夫婦は最初から、財などはない、と訴えていた。事実、なかったのだ。夫婦は所有する土地を手放し売却していたが、これは少学を目指す息子を私塾の寮に入れるためだった。土地を売った代金はとっくに学費として消えていた。夫婦は無駄に苦しみ、無駄に死んだ。 「罪もない民を凌遅にしておいて、凌遅は惨すぎるとどうして言えましょう。狩獺自身には惨いなどと言う資格はございませんし、我々とて軽々に惨すぎるなどとは申せません。狩獺が凌遅に処せられるのは惨くて、罪もない夫婦が凌遅になることは惨くないのかと、必ず罵《ののし》る者がございましょう」  瑛庚も如翕も黙り込むしかない。 「私には民を説得する言葉を見つけられません」  だが、と如翕は呟いた。 「狩獺は殺刑を望んでいる……」  瑛庚は怪訝に思って如翕を見た。如翕は嘆くような眼で瑛庚と率由を見比べた。 「生涯拘禁されるぐらいなら、いっそひと思いに殺して欲しいのだそうです。それでは殺刑は罰にならないでしょう。拘制こそが罰になるのではありませんか」  率由は少しばかり狼狽《うろた》えたように、 「そう言っているだけでないと、なぜ言えるのでございます? それが狩獺の本心であるにしても、実際に刑場に引き出されれば、命乞いをするのかもしれません」 「それは……そうだが」 「最後まで命乞いをしなかったとしても、それは狩獺の虚勢でございましょう。真実、狩獺が殺されることを恐れていないとは思えません。自身の死や苦痛に対して、恐怖を感じない人間はおりますまい。どんなに自暴自棄になっていても、それは絶対に根底にあるものでございます。あるからこそ、自暴自棄になるのではないのでしょうか」  如翕はしばらく考え込み、そして頭を振った。 「虚勢ではあるかもしれない。けれども、狩獺は自暴自棄になっているわけではないと思う。上手く言えないが、狩獺は殺刑になることで自分が勝者になろうとしているように見えます」  瑛庚には意味が分からなかったし、それは率由も同様のようだった。唯一、狩獺本人に面会している如翕は言葉を探している。三者がそれぞれ口を噤んだところに、慌《あわ》ただしい跫音《あしおと》と、何かを言い争う声が近付いてきた。 「大司寇《だいしこう》——お待ちを」  扉の外でするのは司法の知音《ちいん》の声だろう。 「今は論断の最中でございます。たとえ大司寇といえど——」  知音が言い終えるより先に扉が開かれた。そこには怒ったような表情を湛えた大司寇が立っている。 「決獄《はんけつ》は」  瑛庚は怪訝に思いながら、その場に膝をついて深く拱手《きょうしゅ》した。 「論断は始まったばかりでございます」  よし、と大司寇の淵雅《えんが》は言って、瑛庚らを見た。 「予め言っておく。殺刑はならん。——それだけは含みおくように」  瑛庚らは顔を見合わせた。もちろん、司法をはじめとする上位の官が論断に際して意向を言うことはある。第一、司刺は三刺として六官長をはじめとする高官の意見も求める。だが、あくまでも論断は典刑、司刺と司刑の三者が自らの見識をもって行なうものだ。 「大司寇、則を超えます」  知音はそれと分かるほど憤慨している。司法の結論を他者が左右することは許されない。これはたとえ大司寇であっても例外ではなかった。大司寇なり冢宰《ちょうさい》なりが上位の権をもってすでに出た決獄に異議を唱え、諸官に諮った上で論断を差し戻すことはできたが、それも一度限り、決獄の内容をあらかじめ指示することはできない。——唯一、例外があるとすれば王の宣旨だ。  思って、瑛庚ははたと知音を見た。 「ひょっとして、主上の御意向でしょうか?」  ならば分かりやすい——そう思ったのだが、知音は首を横に振った。 「やはり主上は私に任せると仰られた。そなたら三人の論断に任せて良い、と」 「主上はどうかしておられる」  淵雅は知音を押し戻した。 「なぜここに至って及び腰になられるのか。あるいは民の声を慮《おもんぱか》ってのことかもしれないが、それがあえて整えた道を壊す理由になろうか」  淵雅は言って、瑛庚らを見渡した。 「——刑は刑なきに期す、と言う。刑の目的は人を罰することになく、刑罰を用いないで済むようにすることにある。また、刑措《けいそ》、とも言う。刑罰を措いて用いないことだが、つまりは天下がよく治まって罪を犯す不心得の罷民《ひみん》が減り、刑罰を用いる必要がなくなることを言う。これが国家の理想であることは論を俟《ま》たない。これまで柳はこの理想に向かって進んできたし、あえて理想を捨てる理由がない」 「そうでしょうか」  声を上げたのは、率由だった。 「ならばなぜ狩獺のような豺虎が現れたのでしょう。我々は刑制を見直すべき時期に来ているのではないのですか」 「豺虎などという言い方を仮にも司法官がするものではない」  淵雅はぴしゃりと言った。 「罪あるとはいえ、狩獺も民の一人だ。豺虎という言葉は、理解しがたい罪人を人以外のものに貶《おとし》める言葉だ。人以下だと切り捨ててしまえば、罪人を教化することは叶わない」  一理ある、と瑛庚は恥じ入る気分で思ったが、率由は折れなかった。 「十二銭のために八歳の子供を殺す男は、人ではありません」  率由、と瑛庚は小声で窘《たしな》めたが、率由は瑛庚のほうを振り返りもしなかった。対するに淵雅は厳しい眼差しを率由に向ける。 「狩獺のような理解しがたい罪人が現れたのは、まさしくそのようにして罪人を人以下のものだと判ずる司法のせいではないのか。人以下と決めつけてきて悔い改めよと求めたところでそれに従う者がいるだろうか。そんな心持ちで罪人に当たるから、罪人は罪を繰り返すのだ」 「しかし——」 「そもそも、たかだか十二銭のために本当に殺罪を犯す者などいるだろうか。狩獺自身が州司法の鞫問に対してそう答えたようだが、あるいは州司法が人以下の豺虎だと決めつけるから狩獺もあえて申し開きをしなかったのではないか。人を人以下のものだと決めつける行為は、そうやってあたら罪人を作る」  率由は黙り込んだ。 「狩獺があの子供を殺したのには、どれほど理解が難しかろうと、狩獺なりの理由があるはずだ。その理由さえ明らかにすることができれば、狩獺のような罷民を救う術《すべ》も分かる。教化し、掬《すく》い上げることができるのではないか」 「お言葉を返すようでございますが、狩獺は特に理由などない、と」  如翕は言ったが、淵雅は首を振った。 「言っているだけではないのか。自身もうまく言葉にできないのかもしれない、あるいは狩獺自身にも自らを捕まえられないのかもしれない。そこを諭し、言葉を尽くし、狩獺と共に理由を探す。そうして今後、民を治めること、罷民を教化することにそれを役立てることこそが、司法の役割であろう」  如翕は黙り込んだ。 「司法の職は罪人を罰することにあるのではない。教化し反省を促し、立ち直らせることにあるのだ。それを決して忘れぬよう」  淵雅は言って瑛庚らを見る。口を開こうとした瑛庚だったが、淵雅の背後から知音が目線で押しとどめるふうをしたので口を噤んだ。知音が淵雅の前に進み出る。 「大司寇の意向は承りました」  淵雅は頷く。 「大辟《たいへき》だけはならぬ。——いいな」  強く言って、淵雅は踵《きびす》を返した。知音は何も言わず、その場に深く頭《こうべ》を垂れた。瑛庚らもそれに倣う。面伏《おもてふ》せたまま楚音を見送った。物音が絶えるのを待って、知音が顔を上げた。いかにも苦々しげな表情だった。 「大司寇はああ言っておられるが、そなたらは従前のように、他者の意見に左右されず、己の職責を果たすように」 「しかし……」 「他ならぬ主上が司法に任せると言っておられるのだ。大司寇の顔色を窺《うかが》う必要はない」  おそるおそる、というように率由が、 「我々にお任せいただけるということは、主上は自らの『大辟を用いず』という言葉を撤回なされたと理解して良いのでしょうか」  知音は顔を歪めた。 「……分からない」 「分からない、とは」  率由が問うと、知音は首を振った。手振りで瑛庚らに席に着くよう促す。自らも力なく榻《ながいす》に腰を下ろしたが、それは論断に呼び寄せた証人や犯人が坐るための席だ。知音はそれに気付いているのだろうか。 「主上に直接お目にかかって、『司法に任せる』という宣旨の意味を伺ったのだが、明らかなお答えはいただけなかった……」  そもそも王は、面会を求める知音に対して、言うべきことは言ったから会う必要はない、という態度だったらしい。だが、それだけでは知音のみならず瑛庚らも判断に困る。何度も面会を求め、果ては冢宰、宰輔《さいほ》に泣きついてようやく燕見《えっけん》に漕ぎ着けた。 「だが、主上は『司法に任せる』と繰り返されただけだ。それは『大辟を用いず』という判断を撤回なされるということなのかお訊きしたが、それも司法に任せると仰る。撤回すべきだと司法が判断するのなら、それでいい、と」 「では、殺刑もあり得ると考えてよろしいのですか」 「それは確認してある。殺刑を含め、そなたらがそう判断したのならそれでいいということだ。異論は言わぬ、と」  瑛庚は複雑な気分がした。これを、司法の判断に信を置いて任された、と考えて良いものだろうか。むしろこれは、丸投げ、と言うのではないだろうか。実を言えば、最初に「司法に任せる」という言葉を聞いたときから、瑛庚は疑いを抱いている。この言葉は、迷ったあげくの言葉ではなく、ましてや司法に対する信頼の表明でもなく、興味がない、という婉曲《えんきょく》な表現なのではないのかと。知らず、溜息になった。如翕、率由も同様だったのだろう、呻《うめ》き声にも似た声が聞こえた。  柳国の王は治世百二十余年を築いた賢治の王だが、このところ臣下の首を傾げさせることが多かった。時折、施政に興味をなくしたかのように振る舞う。あれほどの賢君が——ことに法治国家として名高い柳の名声を築いた人が、法の成り立ちなど無視するかのような振る舞いをすることがある。場当たり的に無造作な判断を下す。自ら法を無効化するような法を臣下に求める。そのたびに臣下が諌《いさ》めるのだが、必ず諌言《かんげん》が受け入れられるとは限らない。  知音は深い溜息を落とし、 「ともかくも、主上は司法に任せると仰ったのだ。そなたらは雑音に惑わされることなく、論断を進めなさい。私はそなたらの決獄を支持する」 「しかし、それでは大司寇が」  瑛庚が言うと、 「大司寇である以上、刑獄に意見を差し挟むことは可能だが、おまえたちはそれに従う義務を持たない。ましてや主上に任されているのだから、この件に関しては、たとえ大司寇といえど決を拒むことはできない。——もっとも、私が決獄を報告したあとで、大司寇御自身が主上を説得なさるのかもしれないが」  あり得ないことではない。大司寇の淵雅は他ならぬ劉王の太子だ。公の場だけでなく、私的にも王を直接説得できる立場にいる。 「説得できましょうか」  率由が低く言う。難しいだろう、と知音は短く答えた。  大司寇の淵雅は劉王以上の劉王と呼ばれる。——無論、これは臣下の間でひっそりと呼び交わされる綽名《あだな》だ。賢君の誉れ高い父に対する対抗心の表れなのかもしれない。淵雅はことさら、王以上に王たろうとする。殺刑はならぬ、と言うのもその表れだろう。  何事によらず、王が何かを決断すると、淵雅はそれをあたかも自身が最初からそう考えていたかのように力説し始める。もし臣下がその決断に対して疑義を呈し、王がそれを受け入れて自身の決断を引き下げたとしても、淵雅は一切妥協しない。決断はすでに淵雅の決断であって、理も正義も自らにあり、王に変節を勧めた臣下も、臣下の勧めを受け入れた王も間違っていると言って憚《はばか》らない。太子の特権で正寝《ししつ》にまで乗り込んで王を正そうとした。  ——だが、残酷なことに淵雅は王ほどの傑物ではない。そもそも淵雅は、王の決断がなければ何一つ決めることができない。それどころか、自身の意見を持つことすらできないようだった。王が何かを言うまでは、ひたすら言を左右しながら父王の顔色を窺っている。そして王が決断したとみるや、それが最初から自身の主張であったように力説を始めるのだ。父王の思考を追いかけ、それが自らの思考であるかのように主張するばかりでなく、淵雅はさらにその上を行こうとする。論拠を付加し、論旨を肥大させるのだが、そこには現実を無視した正論しかなく、しかも結論が先にありきの論には無理も多い。根本をどこか履き違えていることも多かった。司法の理想を語りながら、理想の根幹にある司法の独立を侵すことを疑問に思わない——そのように。しかも淵雅には他者の意見を聞き入れて自身の意見を振り返る度量がない。そもそも自分の意見などではないから、当たり前のことなのかもしれなかった。  ゆえに淵雅がどんなに父を説得しようと試みても、それが成功した例はない。王は苦笑しつつ自身の息子を諭し、淵雅はそれを受け入れられずに荒れ、さらに父王以上であろうといたずらに逸《はや》る。  これまでの例から考えて、淵雅の説得に王が応じるとは思えない。ならば——やはり結論は瑛庚に任されることになる。  如翕は複雑そうな息をついた。 「……これを言うのは不遜なことですが、なぜ主上は太子をあそこまで重用なさるのでしょうか」  一旦言い出すと頑《かたく》なで、一切の説得を受け付けない。だが、政などというものは時流によって変わっていくものだ。変われない淵雅はその下で働く官吏にとって大きな障害になることが多かった。にもかかわらず王は、そんな淵雅を重用する。天官長や春官長でいてくれれば、と臣下は密かに言い交わしていたが、選《よ》りに選って地官長や秋官長などの重要な職を本人が望むままに歴任させた。  さてな、と知音は苦笑した。 「それが親心というものかもしれんな。あれほどの方でも親子の情には勝てない」  いろんな意味で、瑛庚は暗澹《あんたん》たる心地がした。今ここで、淵雅の存在は心に重かった。司法の理想は分かるし、それを求めることは瑛庚とて吝《やぶさ》かではない。ただ、狩獺の件に関しては問題はそこにない。そこにないからこそ、瑛庚らは苦慮しているのだ。それを理解しない人物が大司寇の職にあるのは重荷以外の何物でもなかった。なのに王は施政に興味を失くしつつある。政は軋《きし》み、国は傾こうとしている——。       5  淵雅《えんが》の乱入によって何となく全員が意気消沈してしまい、とりあえずその日は散会になった。翌日から、連日のように司法府に詰めて論断《しんり》を重ねたが、議論は昏迷《こんめい》を深めるばかりだった。  いつの間にか、司刺《しし》の率由《そつゆう》が殺刑を主張し、典刑《てんけい》の如翕《じょきゅう》が拘制を主張するようになっていた。率由は三刺《さんし》のために犠牲者の遺族に会っており、最初から彼らに同情的ではあった。だが、これは決して率由が堅固に殺刑を望んでいるということではない。最初がそうだったから流れとして、率由が殺刑容認を主張する立場に立っているに過ぎなかった。これに対するため、如翕はあえて殺刑を否定する。互いにそういう役割を演じている。本人たちが実は迷っていることは、瑛庚《えいこう》にもよく分かっていた。  瑛庚自身、不思議に思うのは、なぜ三者が三者ともここまで迷うのか、ということだった。率由と如翕の対論に関する限り、如翕のほうに分がなかった。黙って二人のやりとりを聞いていて、瑛庚はそう思わざるを得ない。  あるときには、率由は民の不安を挙げて殺刑を主張した。 「民は不安なのです。国の治安が乱れている。乱れた世を正すため、刑をもって刑を止めることが必要ではないでしょうか」  以刑止刑——すなわち、一人の犯罪者を厳罰に処して他の犯罪を未然に防ぐことを言う。これに対して如翕は、厳罰には犯罪を抑止する効果のないことを、他国や自国の事例を挙げて訴えた。  それでも、と率由は主張する。 「殺刑を用いることで治安が悪化するわけではありますまい。確かに殺刑をもって犯罪を未然に防ぐことはできないでしょうが、殺刑はむしろ罪なき民のために必要なのです。狩獺《しゅだつ》のような罪人は殺刑に処せられるのだと思えば、民はそれだけ安心することができます。人を殺《あや》めれば殺刑——その威嚇力が、民の安寧のために必要なのでございます」 「民が安心を求めていることは分かる。乱れた世相に怯えていることも承知している。だが、そもそも犯罪が増えているのは、国が乱れ、人心が荒んでいるからでしょう。つまりは——言いたくはないが国が傾いている。国の傾きは刑罰では止められません。むしろ百害あって一利もない。ここで殺刑を復活させることは、傾いた国に殺刑の濫用を許すことに繋がります」 「それを防ぐことが、司法の責務でございましょう。民を安んじ、民を守るために司法があるのではないのですか。民を安んじ慰撫するために殺刑を用い、民を守るために濫用を留める——そうでなくてどうするのです」  如翕はこれで沈黙せざるを得ない。確かに瑛庚らは一様に、殺刑の復活によって殺刑が濫用されることを畏《おそ》れていたが、それを留めるのが司法の役割でもあるのだ。刑罰を用いることだけが司法の役割なのではない。  如翕はあるときは、誤断の可能性を引いて率由に抵抗を試みた。 「刑罪を失《あやま》つことがある」  如翕は苦々しげに言った。 「我々は決して過たないと言えますか。不幸にして罪のない者を、罪あると誤認することもあるでしょう。あとで冤罪《えんざい》だと分かったときに、当の本人が殺されていては取り返しがつきません。常に正すことができるようにしておかねば」 「では——お聞きしますが、拘制ならば誤断であっても許されるのですか。徒刑《ちょうえき》ならばいかがです。ありもしない罪のために裁かれ、苦役を命じられ、あたら人生の一時期を無駄に捨てた民はどうなるのでございます。それは取り返しがつくのでしょうか。民は我々のように無限に生きるわけではないのですよ」  如翕は押し黙る。 「民の生はたかだか六十年しかないのです。わずかに三年といえど一年といえど、短い生の中の貴重な三年であり一年なのでございます。失った時間は取り戻しようがありません。本人の苦しみも、罪人を出したと後ろ指をさされる家族の苦しみも償いようがございません。そもそも刑罪を失することは、あってはならないのです」 「だが、天ならぬ人が裁く以上、誤断の可能性は根絶できまい。理想を言うことは容易《たやす》いが、努力すればそれが叶うと考えるのは僭越《せんえつ》でしょう」  ですが、と率由は抵抗する。 「少なくとも狩獺は誤断ではございません。本人も犯した罪を認めておりますし、五件については、狩獺が手を下しているところを目撃した間違いのない証人も複数おります。誤断のおそれがあるから殺刑はならぬと言うなら、およそ誤断ではない狩獺を殺刑にすることは問題ない、ということになりはしないでしょうか」  如翕は困ったように眉を寄せた。 「今は狩獺の問題を論じているのではない。殺刑そのものを——」 「同じことです。誤断の可能性があるから殺刑にできないと言うなら、誤断の可能性がない場合は許されることになりましょう。天綱《てんこう》に殺刑が存在する以上、殺刑の是非の問題ではなく、個別の刑案《うったえ》の問題になってしまいます」  瑛庚は両者のやりとりを聞きながら独り頷いた。これまた如翕に分がなかった。殺刑は是非の問題だが、誤断は間違いなく非だ。両者を同次元の問題として語るのは、そもそも無理がある。  あるときには、率由は被害者の家族の心情を挙げて殺刑を主張した。 「豺虎《けだもの》によってゆえなく家族を奪われた者たちの苦しみは、いかばかりでしょうか」 「その苦しみは承知している。だが、狩獺が殺刑になったところで犠牲者が帰ってくるわけではありますまい。理不尽に家族を奪われた苦しみが癒えるわけではないでしょう」 「もちろんです。起こったことは変えられません。たとえ天帝の威光をもってしても、事件をなかったことにはできません。だからこそ、彼らにはほんの僅《わず》かとはいえ、救いが必要です。家族を亡くした苦しみは決して取り除いてやることはできませんが、狩獺のような者が存在することをなぜ天は許すのか、と思わざるを得ない苦しみは取り除くことが可能です。それが取り除かれたぶんだけ救うことはできるのです、確実に。——逆に言うなら、狩獺を殺刑にしないということは、遺族のその苦しみを取り除く方法があることを知りながら、あえて苦しみを与えたままにするということです。それで仁道を語れましょうか」  だが、と如翕は主張する。 「刑罰は、遺族に代わって復讐するために存在するのではない」 「では、何のために存在するのですか? 罷民《ひみん》を教化するためでしょうか。しかしなががら、狩獺はすでに三度、徒刑《ちょうえき》に処されているのでございますよ。二度は闘殺《とうさつ》でございますが、三度目は賊殺《ぞくさつ》でございます。三度目に均《きん》州で裁かれた際、刑辟《けいほう》の通りに狩獺を殺刑に処していれば、二十三人は死なずに済んだのです」  実際に狩獺を改心させられなかった以上、刑罰は罷民を教化するためにある、という建前には何の説得力もなかった。如翕は教化の方法に誤りがあったのであって、ここですべきは殺刑の復活ではなく、より効果を期待できる教化の方法を探すことだと抵抗したが、その方法とは何か、どうやって真実改心したことを確認するのか、と問われれば返す言葉がなかった。狩獺が解き放たれたことによって生まれた二十三人の新たなる犠牲者、この存在はあまりにも重い。  あるときには、如翕は終身の拘制を主張して抵抗を試みた。 「再犯が問題だというなら、解き放ちは認めないことにすればいい。今でも重罪を重ねた者は沮墨《そぼく》が消えるまで事実上、終生の徒刑または拘制に処せられています。それを引き下げ、殺刑に相当する罪人はなべて終生の拘制、それでは」 「狩獺のような極悪人を一生|囹圄《ろう》で喰わせてやると言うのですか。それは民の税によって賄《まかな》われるのでございますよ。狩獺のような罪人が増えれば、その経費は莫大《ばくだい》になります。それだけの負担を民に背負わせるのなら、生かす理由を民に納得させるだけの理屈が必要でございます」  如翕は詰まり、すぐに答えを見つけ出した。 「それこそ誤断の可能性があろう。誤断の可能性は根絶できないのだから、常に過ちが正される機会を保持しておくべきです。それを民に保障するために負担を求める。それこそが結果として、民自身を守ることになる。誤断である以上、いつ何時、罪なき民にそれが降りかかるか分からないのだから」 「それで? 殺さずにおきさえすれば、常に誤断は正されるのですか? では、お訊きしますが、何を契機に誤断を正すのですか」 「それは——本人の訴えか……」 「ならば、狩獺が誤断だと叫んだとき、司法はこれを受け入れて再度の刑獄にかけるのですね? そのとき典刑は、今回とは主張を変えられますか」 「もちろん再度、刑獄にかけるときには担当する典刑を代えます」 「代えれば主張が変わりますか。罪人を裁くに、典刑の刑察が担当する官によって容易く変わるようでいいのですか」  如翕はこれには答えられなかった。——如翕は当然のことながら、確信をもって刑案を行なっている。本人が誤断だと訴えているからと言って、容易く判断を変えるとは思えないし、また、容易く変えられるようでは困るだろう。担当を代えれば良かろうというのは一見して正論だが、担当を代えれば典刑の刑察も変わるということは、典刑の刑察に客観性がない、ということを意味する。そもそもそのようなことがあっていいはずがない。 「誤断を正すために殺さないと言えば聞こえはよろしいが、実際に正されることがないのであれば意味がありません。正すために刑徒《しゅうじん》の声に耳を傾け、そのたびに刑獄をやり直していては司法の負担は莫大で身動きが取れなくなってしまいます。かと言って負担を軽減するために刑獄のやり直しに関門を設ければ、誤断を正す機会は必然的に狭まる。——いいえ、そもそも誤断はあってはならないのです。終生の徒刑または拘制、と誤断を正す機会があるかのように装えば、刑獄は緊張感を欠く。誤断を畏れるなら殺刑を置いて、断固として誤断は許されぬという決意をもって臨むほうがまだしもです」  如翕は黙した。  瑛庚は一つ頭を振った。ここでもまた如翕に分がないようだった。——それが不思議な気がする。  瑛庚は王によって殺刑が停止された世界で生きてきた。殺刑の停止は当然のことで、刑罰は罷民を教化するためのもので当然だったのだ。狩獺が現れ、民が殺刑を言い出したものの、大辟《たいへき》を用いないことは当然であろうと思っていた。問題はその結論に民が納得するかどうかだ、という気が。  にもかかわらず、実際にこうして是非について論じてみれば、殺刑停止には分がない。むしろこれまで殺刑停止を疑問に思わなかったことが不思議なほどだ。では、いっそここで殺刑復活を受け入れるか、と問われると、それも違う気がする。心のどこかで、「それだけは」という声がする。  瑛庚は困り果て、率由に問うた。 「実際のところ——率由はどう思う」  あえて役名でなく名を呼んだ。率由は怯んだように瞬き、そして眼を伏せた。 「……実を言えば、やはり迷いがございます。狩獺に眼を向けていれば、殺刑も致し方なしと思うのですが、本当にそれでいいのか、という気がしてならないのです」  言って、率由は苦笑した。 「正直申して、典刑がそれではならぬ、と断じてくれないかと期待していたのですが」  如翕は途方に暮れたように溜息をついた。 「なんとか活路を探すのですが、見つかりません。理屈では司刺を組み伏せられませんが、やはり殺刑は違うと思う——としか」 「私は最初、殺刑復活が殺刑濫用に繋がることを危惧していたのですが」  率由はそう言う。 「けれども自分で殺刑を擁護していて、何か違う、という気がしてきました。咄嗟に口にしましたが、濫用を畏れるなら、司法がこれを止めればいい——実はその通りなのではないかと思うのです。他の官が畏れるならともかく、他ならぬ司法官の自分が、殺刑復活が即ち濫用に繋がるとなぜ思ってしまったのか不思議です」  確かにそうだ、と瑛庚は頷いた。  如翕は息を吐いた。 「実際、こうして話せば話すほど、殺人には殺刑をもって報いる、これは理屈ではないのではないかという気がします。犠牲者の家族がそう思うことは当然のことですが、関係のない民までがそう言う。これは根本的な正義と言うより、理屈を超えた反射なのではないかと」 「……反射、か」  はい、と如翕は頷いた。 「殺刑を求めるのが理屈ではないのに対し、殺刑否定には理屈しかありません。どうしても理を弄《もてあそ》んでいるという感じがしてならないのです。現実に即した実感を欠く。それでも強いて挙げるなら、殺刑は野蛮だ、としか言いようがありません。五刑の多くが野蛮だとして忌避《きひ》されてきたように、殺刑も忌避されるべきだ——としか」 「なるほどな……」  五刑とは本来、黥《げい》、※[#「鼻+りっとう」、unicode5293]《き》、※[#「月+りっとう」、unicode5216]《げつ》、宮《きゅう》、大辟を言う。殺罪などの大罪に対して用いられる五つの刑罰だが、この全てが未だに用いられている国はほとんどない。野蛮に過ぎ仁道に惇るとして忌避されるのが趨勢だった。柳においても、「かつての五刑相当」という意味で「五刑」という言葉が残っているに過ぎない。  率由が頷いた。 「鼻を削ぎ、足を斬る——これが野蛮だと言うのなら、殺刑は野蛮の最たるものでしょう。少なくともそれは、法治国家のすることではない、という気がいたします」  確かに、と思う一方で瑛庚は胸の痼りを自覚する。だが、狩獺は罪もない者に対し、その野蛮な暴力を無造作に振るってきたのだ——。       6  堂々巡りをしている。  虚脱感にも似たものを噛み締めながら瑛庚《えいこう》は司法府を出る。論断《しんり》を繰り返している間に夏はいよいよ終わり、秋めいた夕陽が射していた。一旦、司刑府に立ち寄り、府吏《げかん》と合議を持ってから官邸に戻った。大門《いりぐち》を入ると、夕陽に染まった門庁《もん》に坐って清花《せいか》が待ち構えていた。その背後、門庁の軒が作る影の中に見慣れない男女の姿がある。 「——お待ちしてましたわ」  どうした、と瑛庚は問い、背後の二人を見た。二人は瑛庚が近付いてくるのを見るや、榻《ながいす》を滑り降り、その場に身を伏せて叩頭《こうとう》した。 「駿良《しゅんりょう》の父母でございます」  椅子から立ち上がった清花がそう言って、瑛庚は仰天した。 「——どういう」 「貴方は彼らの声をお聞きになるべきです」  言い放って、清花は叩頭した二人に顔を上げさせる。 「司刑《しけい》ですよ。訴えたいことを仰い」 「待て」  瑛庚は強い声で留めた。清花を見据える。 「私はそれを聞くわけにはいかない」  瑛庚は言って、慌てて門庁の建物を通り抜けようとした。その手を清花が掴んだ。 「なぜお逃げになるの? 二人の話を聞いてあげてください」 「放しなさい。それはできない」 「犠牲者の苦しみを聞かずに、貴方は何を裁こうというのですか!」 「僭越だ」  瑛庚は思わず怒鳴った。清花がさっと顔を歪める。 「無位の者の意見など聞く価値がないというわけね。そうやって犠牲者の声にも庶民の声にも耳を塞いで、雲の上の論理だけで罪を裁こうとするのだわ」 「そうじゃない」  瑛庚は言って、顔を上げたまま竦《すく》んだように凍り付いている二人の男女を見た。窶《やつ》れ果てた身なりと絶望が穿《うが》ったような眼が胸を剔《えぐ》った。 「そなたらの意見は司刺が聞いたはずだ。重ねて訴えたいことがあれば司刺に言いなさい。このまま退出するように」 「司刺が聞けば充分なの? 自分の管轄ではないと仰るのね。官吏はいつもそうだわ。自分の職分以上のことは見てみようともしない」  言い募る清花を瑛庚は怒鳴りつけた。 「私が個人的に話を聞けば、論断の独自性が疑われる」  刑獄《けいごく》はあくまでも典刑《てんけい》、司刺、そして司刑の三者だけで運営されなければならない。三者以外の者が決獄《はんけつ》を左右することがあってはならない。それは国や腐敗した官吏による刑獄への干渉を防ぐために絶対的に必要なことだ。典刑は鞫問《じんもん》の一環として犠牲者を取り調べることがあり、司刺はその職分によって犠牲者やその家族に意見を求めることもあるが、司刑が単独で犠牲者に面会することは許されない。それをすれば瑛庚の決は信を失う。  ましてや、今は王からも決を任されている。瑛庚の決断は国家の決断であり、そこに疑義が生じることは断じてあってはならないことだ。それでなくても瑛庚の下す決獄に、民の司法に対する信頼がかかっている。その上、大司寇の存在がある。淵雅《えんが》は断固として殺刑に反対する構えだ。もしも瑛庚が殺刑と決を下し、それで個人的に駿良の父母と面会したことが淵雅に知れれば、その一事をもって淵雅は決獄を全否定するだろう。全否定されても異論は言えなくなってしまう。 「これはそなたらのためでもある。このまま退出しなさい」  あえて背を向けて言った言葉を清花が遮った。 「いいえ。そんなことは私が許しません。二人の話をお聞きいただくまで、二人は帰しません。このまま何日でも私の客として逗留《とうりゅう》させます」 「莫迦者」  瑛庚が怒鳴った瞬間、清花の顔から血の気が引いた。すぐさま憤怒の気配とともに白い顔が紅潮していく。最悪の言葉を口にしたとは分かっていたが、瑛庚は引き下がるわけにいかなかった。 「お前は何も分かっていない。——誰ぞ。誰かいないのか」  呼ぶ声に、答える声と物音があったが、その気配は遠かった。おそらくは清花が人払いをしていたのだろう。埒《らち》が明かないと悟って、瑛庚は妻の手を振り解く。その時だった。 「あの豺虎《けだもの》を殺してください」  痛々しい女の声がした。 「それができないのなら、あたしを殺してください」  瑛庚は咄嗟に女を振り返った。 「あたしが家を出るあの子に声を掛けたんです。ちゃんとお金は持ってるの、間違いなく足りるの、って。それをあの豺虎は聞いてた」  ——三つで十二銭。間違いなく持ってるよ。 「あの子は桃をお腹いっぱい食べたかったんです。普段ならそんな無駄遣いはさせません。でも、駿良は妹にも食べさせてやりたいって言ったんです。娘はまだ喋れませんけど、以前、桃を一切れ与えたとき、とても喜んでたって。きっと桃が大好きなんだよって言うんです。妹だから、自分と同じで桃が好きなんだって。だから一つ丸々食べさせてやりたいんだって」  女の眼は深い何かを湛えていたが、涙は見えなかった。 「そのためによく手伝ってくれました。一つ手伝いをすると一銭硬貨を一つ渡すんです。日がな一日、あたしの側にまとわりついて、手伝うことはない、って訊くんです。これを手伝おうか、あれを手伝おうかって。その様子があんまり愛しくて、いじらしくて……あたし、あの日、特別にね、って二銭渡してしまいました。ずっとお手伝いして偉いね、貯めて偉いね、って。それで十二銭になるのが分かっていたから、二銭、渡したんです」  瑛庚は視線を逸らした。女が何を訴えたいのか理解した。非道と言われることを覚悟で歩みを進める。その背を男の声が追いかけてきた。 「息子は死んだ。なのになぜあの男は生きているのですか」  男の声がひび割れているのは、叫びに嗄《か》れているからだろうか、激情に流されようとしているからだろうか。 「すぐ近くだったんだ。なのに私はあの子を助けに行ってやれなかった。きっと私たちを呼んだはずだ。なのにその声を、私は聞きつけることができなかった。どれほど苦しかったでしょう。そのとき息子は何を考え、何を感じていたんでしょう。なぜ息子だったのですか。なぜ死ななければならなかったのですか。私には何一つ分からない。分からないから考えることをやめられない。私に分かっていることは、息子がもう帰ってこないということと、にもかかわらずあの男は生きている、ということだけです」  耳を覆ってしまいたいが、それができない。 「息子は苦しんだ。私たちも苦しい。なのになぜあの男は苦しんでいないのですか。私たちの苦しみには何の意味もないのでしょうか。貴方がたにとって私たち民は、どんなに苦しんでいても顧みる値打ちもない存在なのですか」  瑛庚は自制して振り返らなかった。  夫婦は駆けつけた家人が芝草《しそう》に帰した。清花は抵抗したが、必ず帰すよう家人に言い含め、事件の関係者を邸に入れることのないよう強く命じた。同時に府史を邸に呼び寄せ、門を閉ざして二度と同じことが起きないよう警護させる。その上で、改めて清花を諭すべく後院《へや》を訪ねたが、清花は頑として扉を開いてくれなかった。 「もう結構です。貴方がどういう方なのか、私をどう思っていらっしゃるのか、よく分かりました」  扉の向こうから叩き付けるように言って、以後、一切呼びかけに答えない。瑛庚は走廊《かいろう》に立ちつくすしかなかった。  恵施《けいし》のように、清花もまた出て行くのかもしれない。——それも致し方ない、という気がした。  本人が望むなら仕方ない。だが、清花はそこからどうやって暮らしていくつもりなのだろう。瑛庚が生活費を与え、あるいは職を与えることは可能だし、市民に戻ればもう一度給田も受けられる。だが、下界は清花が王宮で過ごした十二年ぶん、進んでいる。この十二年の間に清花の父母は死に、兄弟もそれだけ老いた。知人も十二年ぶんの歳月を過ごしている。それに慣れることはできるのだろうか。  思って、瑛庚は苦笑した。  兄弟縁者が死に絶えるほどの時間が経ったわけではない。近頃でこそ連絡することは間遠になっていたが、数年前までは頻繁に連絡をしていたし、訪ねてもいた。この空隙《くうげき》は決して埋められないものではなかろう。——恵施とは違って。  恵施が出て行ったとき、すでに六十年近い年月が経っていた。両親はもちろん、兄弟もすでに鬼籍に入り、それどころか子供すら生きてはいなかった。ただの民に戻った恵施は、知り合いの一人もいない市井に戻って、そこで何を感じ、考えたのか。  恵施が感じたであろう寄る辺のなさは想像がついた。実際、瑛庚もまた一度、職を辞し、仙籍を離れて下野したことがある。恵施が去ったあとのことだ。蓄えがあり、国からの保障もあったので生活に困ることはなかったが、どこにも居場所がない、というあの感覚は今も忘れがたい。知人の一人もおらず、かつての知り合いは子供も含め、全て失われている。子供の子や縁者ならどこかにいたはずだが、所在は知れなかった。郷里を含め、かつて住んでいた場所はどこも様変わりしていて居場所を見つけることはできなかった。仙籍を離れたのは醜聞の責任を取ってのことだったので、州官だった次男に会うわけにもいかず、親しい同輩を頼りにすることもできなかった。会うことも声を掛けることも自制せざるを得ず、瑛庚は自宅に引き龍もっているしかなかった。瑛庚はこの世界で、完全に孤立していた。  今から振り返ると、その経過は皮肉な図式を描いていたように思う。瑛庚はそうやって蟄居《ちっきょ》している最中、清花に出会い、二度目の婚姻をした。そして瑛庚が蟄居せざるを得なかったのは、最初の妻である恵施が犯罪に手を染めたからだった。  瑛庚の許を去った恵施が、単なる人に戻ってどんな生活をしていたのかは分からない。瑛庚は援助を申し出たが、恵施はそれを拒んで市井に消えた。再び恵施の噂を聞いたのは五年後、恵施は方々に高官である瑛庚の名を出して便宜を計ると耳打ちし、膨大な金品を騙し取って逮捕されたのだった。鞫問によって瑛庚が無関係であることはすぐに判明したが、さすがにそのまま官吏として留まることはできなかった。責を取って辞職し、野に下らざるを得なかった。  ——いったい何を考えたのか。  瑛庚は恵施を善良な女だと思っていた。およそ罪に手を染めることなど、想像もつかなかった。おそらくは困窮していたのだろう、それによって魔が差したのだろうと痛ましく思った。恵施も捕まってからというもの幾度となく詫び状を出してきたし、真摯《しんし》に反省していることを察して、瑛庚は自身の被害については司刺《しし》に赦免を申し出た。かつての夫として被害者に対して罪を贖うこともした。恵施は溢れるように感謝の言葉を連ねた書状を寄越したが、半年の徒刑《ちょうえき》を終えるといずこへか消え去った。再び噂を聞いたのはその一年後、恵施は均州において同様の犯行を繰り返して逮捕された。  振り返ると、今も口の中が苦い。詫び状と赦免の申し出、同じことが繰り返されたが、以後も恵施は同じ罪を重ねた。重ねるたびに被害の規模こそ小さくなっていったが、瑛庚は改心することのない者もいる、という事実を受け入れざるを得なかった。四度目の詫び状は堪《たま》らず無視した。その頃には清花という新しい妻を得、野に下ること三年を経て、国府に呼び戻されていた。  国府に戻ってのち、瑛庚は手を尽くして恵施の件について調べたのだが、恵施の行動は理解を超えていた。恵施は郡典刑の鞫問に対し、これは自分を愚者扱いした瑛庚への復讐だと胸を張ったという。聞くところによれば、直接の動機は金品だった。瑛庚が察したとおり、恵施は下界で困窮していた。だが、犯罪に手を染めたことそれ自体が、恵施にとっては瑛庚に対する復讐のつもりだったらしい。恵施は自身が愚かでないことを証明するため、豪商、地方官を騙した。最初に徒刑に処せられたとき、深く悔いる様子を見せ、官もそれを信じて解き放ったのだが、二度目の逮捕の際の鞫問によれば、最初から恵施は罪を悔いてなどいなかった。——理解しがたいが、法を破り、司直の手を逃れることが、恵施にとっては徹頭徹尾、瑛庚に対する復讐であったらしい。  異常なまでの復讐心と、夫に対する敵愾心《てきがいしん》、と恵施を鞄問した典刑は言っていたようだが、なぜそこまで恵施が自分を憎んだのかは分からない。いずれにしても恵施は同じ罪を重ね、瑛庚が見限ってからも同じような生活を続けているらしかった。手口がいつも同じなので、やがて恵施に騙される被害者のほうが絶え、風の噂も絶えた。今どこでどうしているか、瑛庚は知らない。  清花が地上に降りたからと言って、恵施と同じ道を辿るとは思えなかったが、その経過は忘れることができない。  物音の絶えた扉の前で溜息をつき、瑛庚は正堂《おもや》へと戻った。正堂に入る階には、今にも泣きそうな貌をした李理《りり》が小さく蹲《うずくま》っていた。 「李理——」 「……父さまは母さまを追い出してしまうの?」  瑛庚を見上げ、膝を抱いたまま娘が問う。その側に屈み込みながら、瑛庚は首を振った。 「そんなことはしないよ」 「でも、母さまはそう仰るの。母さまもあたしも追い出されてしまうって」  李理はどうなるのだろう、と瑛庚は思った。清花が出て行くのは致し方ないが、そのとき李理をどうするつもりなのだろう。おそらくは市井に連れて降りるのだろうと思ったが、思った途端、李理と駿良が重なった。  下界は荒れている。狩獺のような豺虎が跋扈する世界に幼い娘を無防備に放り出すのか、という気がした。 「追い出したりするはずがない。私はお前たちにずっと側にいて欲しいと思っている。それとも李理は、出て行きたいのかね?」  李理は首を横に振った。 「では、李理こそ約束してくれないか。どこにも行かないと」  ——決して狩獺のような豺虎に捕まったりはしない、と。  李理は生真面目な表情で頷いた。その顔を見て、瑛庚は思う。  もしもこの娘に何かあったら。  如翕《じょきゅう》は、人を殺せば殺刑、これは理屈ではない、と言った。一種の反射だと。その通りだと瑛庚は思う。このように幼くか弱い存在を情け容赦なく殺害する、そんなことが赦されていいはずがない。絶対に赦すことはできないし、あえて罪を犯した以上、自身が殺される覚悟ぐらいあって当然だろう。  もしも狩獺が李理を殺したのだったら、瑛庚は狩獺を決して赦さないだろう。司法が赦すと言うなら、瑛庚が自ら剣を取って狩獺を殺す。それにより、瑛庚自身が罪に問われても構わない。  ——殺刑しかあるまい。  思った途端、ひやりと冷たいもので背筋を撫でられた気がした。踏み込んではいけない場所に一歩を踏み出した気がする。  この躊躇は何なのだろう。——思いながら、瑛庚は李理の頬を撫でた。 「母さまを慰めてあげてくれないか」  李理は頷き、ぱっと立ち上がると後院へと駆け出していった。遠ざかる背が小さかった。それが一層小さく離れていく。  瑛庚は幼い姿を見守っていた。       7  夜になって、蒲月《ほげつ》が書房《しょさい》に駆けつけてきた。 「——大変なことがあったと——」  息を乱してそう言う。瑛庚はただ頷いた。 「申し訳ありません。私がいてお止めできれば良かったのですが」 「お前が謝るようなことではない。……誰から聞いた?」 「奄《げなん》から。——それ以前に、司刑の邸で何か騒ぎがあったらしいと聞きました。実際に何があったのかは聞けませんでしたが」  瑛庚は苦笑した。 「門庁《もん》でのことだったからな。それとも奄奚《げなんげじょ》に口の軽い者がいたか。——良い、どうせ人の口に戸は立てられない」  瑛庚は言って、窓の外に眼をやった。暗い園林《ていえん》から涼しい夜風が吹き込んできていた。もう——秋が来る。 「もしもこれが司法や小司寇の耳に届けばどうなりましょう」 「この刑案《うったえ》を降ろされることは確実だろう」  答えながら、瑛庚はそれでもいいか、という気がしていた。この刑案は瑛庚の手には余る。刑案から降ろされるばかりでなく、下手をすれば司刑の職を失うことになるのかもしれなかったが、それもまた悪くない気がする。  思ってから、瑛庚は蒲月を見やった。 「……お前にも累《るい》が及ぶかもしれないな」  蒲月は瑛庚の側に膝をついた。瑛庚の手を両手で包む。 「そんなことをお気に病まないでください」 「しかし——」  蒲月はやっと国官になったばかりだ。せっかく手に入れたものを失ってしまう。 「……清花《せいか》を責めないでやってくれ」  清花が何を考えたのかは分からないが、邪な思いから出た行為ではないことは分かっている。あとで周囲の者に聞いたところによれば、清花はこのところ、密かに芝草《しそう》に降り、駿良《しゅんりょう》の両親のみならず、遺族を訪ね歩いていたらしい。彼らの話を聞いて同情したのだろう。起こした行動はあまりにも短慮に過ぎるが、その心根は否定できない。  瑛庚がそう言うと、蒲月は頷いた。 「私が言葉を惜しんだせいかもしれないな。もっと言葉を尽くして、自分の職分について話をしておくべきだったのかもしれない。今何を思い、何を迷っているのか」  そうは言うものの、瑛庚は自身がそれをしたとは思えない。清花には理解するのが難しいことだろうし、理解して欲しいとも思えなかった。——これは拒絶ではない。むしろ逆だ。清花には単純に義憤を感じ、率直に怒る、そのようであって欲しかった。  だが、そういう瑛庚の身勝手な思いが清花を怒らせ、そして恵施《けいし》を怒らせたのかもしれない。少なくとも同じ言葉を投げつけられる以上、全ては瑛庚に原因するのだろう。——思っていると、蒲月が静かに語りかけてきた。 「お祖父さまのせいではない、と私は思います」 「……そうだろうか?」 「確かです。これはお祖父さまのせいではないし、姉上の落ち度でもありません。全ては狩獺《しゅだつ》のせいです」  瑛庚は切なく失笑した。……ここで狩獺を持ち出すか。  だが、蒲月は小さく首を振る。 「姉上は不安なのです。なぜ駿良の両親に会おうと思い立ったのかは分かりませんが、目的は分かるような気がします。狩獺を殺刑にするため——そうすることで自身の不安を取り除くため」 「殺刑には罪を止める効果はないと言ったのだがな……」  瑛庚が言うと、蒲月は首を振った。 「たぶんそういうことではありません。芝草の治安は乱れ、いつの間にかそれが王宮の中にまで及んでいます。ただでさえ不安なのに、狩獺の存在は、救いようのない罪人がいる、という事実をさらに突きつけるのです。理解しがたく共感もできない。自明のはずの正義を踏みにじって寸毫《すんごう》も気にしない者がいるという、そのことが、姉上を——姉上のような民を堪らなく不安にする」  言って、蒲月は力なく微笑んだ。 「狩獺さえ取り除かれれば、不安もまた取り除かれます。姉上も民も、ほどほどに世間を信用していられる。そうやって自分の眼に見える世界を整えようとするのです」 「そう——清花が?」 「いいえ。私がそう思うのですよ。私の中の、単なる民に過ぎない部分がそう思うのです」  そうか、と瑛庚は胸の中で呟いた。 「取り除くことで世界を整える……」  ふいに、淵雅《えんが》の言葉が蘇った。 「豺虎《けだもの》という言葉は、理解しがたい罪人を人以外のものに貶め、切り捨てる言葉……」  蒲月は怪訝そうに首を傾げた。 「大司寇がそう言っておられたのだ。そのときにも一理ある、と思ったが、確かにその通りなのだろう。我々は自覚している以上に臆病だな。理解できないものは切り離してしまわなければ安らかでいられない……」  恵施からの詫び状を捨てたとき自分の中にあったのもそれだった気がする。これ以上は付き合えない——そう思ったが、それは理解しがたい存在を断ち切って見えない場所に追いやってしまいたいという衝動だったのだろう。  思えば、瑛庚は恵施のために赦免を願い出、罪を贖ったが、実際に恵施に面会することはしなかった。たぶん恵施の存在を眼に見えないところに切り離してしまいたかったのだ。責任を感じ、義理によって助けはしたが、本当はそこで恵施に面会し、理解し難くとも話し合うべきだったのかもしれない。少なくともそうすれば、恵施は同じ罪を繰り返さずに済んだのかも。 「人とはそういう生き物なのでしょう」  蒲月は言って、瑛庚の手を労《いたわ》るように叩いた。 「けれども、私はその一方で国官です。そういう私情を措いて考えなくてはならないことがあることを知っています。私は秋官ではありませんが、お祖父さまが今背負っておられるものが何なのか、分かっているつもりです」  瑛庚はただ頷いた。 「姉上のことは私と李理《りり》にお任せください。お祖父さまは司刑としての職責を貫かれますよう」  瑛庚は無言で孫の手を握り返した。  瑛庚は彼らの声を聞いてしまった。職責に妨げのある事態だとは思わなかったが、黙っているわけにもいかない。翌日には知音《ちいん》に事情を報告しておいた。知音は沙汰を待つよう言い、その間|論断《しんり》を進めておくように言った。そして、知音から呼び出しがあったのは三日後、面会した知音は報告したとき以上に渋い顔をしていた。 「主上は御理解くださったようだから問題はない」  瑛庚は知音の顔を見る。 「小司寇と相談のうえ、とりあえず主上に報告を差し上げたのだ。処遇についてお尋ねしたが、構わない、との仰せだ」  知音の声は沈んでいた。瑛庚もまた気分が落ち込むのを感じる。叱責《しっせき》がなかったことはありがたいが、同時に落胆も感じる。やはり自分が決断せねばならない、という思い。それに何倍して強いのは、やはり王はこの件を投げ出しているのだ、という落胆だった。 「……主上は狩獺の件に、全く興味をお持ちではないのですね」  そのようだ、と知音の声はさらに低くなる。 「大司寇はいかがなのでしょう」 「まだ何も言って来ないな。耳に入っていないはずはないと思うが」 「大司寇のことを考えれば、私を更迭《こうてつ》していただいたほうが」 「主上のお言葉があるのだから、それには及ばない」  知音は言って、瑛庚を見た。 「お前には荷が重いだろうが、私はお前に裁いて欲しいと思っている。お前と如翕《じょきゅう》、率由《そつゆう》ならばどんな結論が出ようと納得できる——そう思って選んだのだ」  その言葉がありがたく、瑛庚は深く頭を下げた。だが、論断の場に戻りながら、気分はひたすら落ちていく。心配そうに待つ如翕と率由の顔を見ると、いっそう暗澹《あんたん》たる気分になった。 「……やはり主上は狩獺の件を投げておられる」  先に口を突いて出たのは、自身の処遇ではなく、そのことだった。  国は傾いている——確実に。  それを思うと、思考は最初へと戻ってしまう。国が傾きつつあるこの時期、本当に殺刑を復活しても良いのか。この先、著しく国が沈み始めたとき、本当に瑛庚ら司法は殺刑の濫用を止めることができるのだろうか。  瑛庚が言うと、如翕も率由も考え込む。——結局のところ、この期に及んでまだ迷っている。誰もがこれだ、と自分の意見を決めきれない。狩獺の犯行、遺族のことを思えば殺刑もやむを得ないという気がする。すると、殺刑を畏れる怯懦《きょうだ》が首を擡《もた》げる。  瑛庚は、次第に理屈ではないのではないか、という気がしていた。殺人には殺刑、これが理屈ではないように、殺刑に対して躊躇する思いも理屈ではないのではないか。  瑛庚の中で李理の声がした。  ——父さまは人殺しになるの?  実は李理のこの言葉こそが、図らずも事の本質を剔っているのかもしれない。瑛庚は殺刑と殺人は当然のように別物だと思ってきたが、心の奥底から本当にそれを信じているのだろうか。むしろ瑛庚は常に意識していたような気がする。どう言い繕ったところで殺刑は殺人に他ならない。人の手が他者の命を絶つことだ、と。  人を殺せば殺刑、人が当然そう思うように、人殺しを忌まわしく思う、これもまた人の当然なのではないだろうか。民の多くは狩獺を殺刑にせよ、司法が殺刑にしないのなら自分たちに引き渡せ、と言うが、実際に狩獺と一対一で対峙して、本当に狩獺を殺害できる者がどれだけいるだろう。そこで前に進んで自ら剣を振り上げることができるのは、おそらくは犠牲者の遺族だけだろう。確かに瑛庚自身も、李理を殺されたのであれば躊躇わない。心ある者も復讐せんがため、殺人を忌避する己を超える。——逆に言うなら、復讐のためでなければ超えられないのだ、と思う。  殺刑の濫用を畏れるのも、殺刑を野蛮だと感じるのも、結局のところこの本能的な怯懦——殺人を忌む反射が根底にあるのかもしれない。  瑛庚がそう言うと、率由がふっと息を零した。 「そうかもしれません。——これは本当に私情なのですが、殺刑を主張していると、常に友人の顔が浮かびます。地方官をしていたときの同輩ですが、今は掌戮《しょうりく》を勤めておりますのです」  瑛庚は、はたと率由の顔を見た。掌戮は司隷《しれい》の指揮のもと、実際に刑徒《しゅうじん》に刑罰を科すことを掌る。もしも狩獺が殺刑になるとすれば、それを実行するのは掌戮になるだろう。掌戮が采配することになる。 「人を殺した者は殺されても仕方ない——狩獺を見ているとそう思えるのですが、友もそう思ってくれるだろうか、という気がしてならないのです。もちろん、国家による処刑を個人の身勝手な思慮に基づく殺人と同列に語ることはできません。ですが、実際に殺刑にする以上、現実に誰かが手を下して狩獺の命を奪うのです」  しかし、と如翕が宥めるように口を挟んだ。 「おそらくは、実際の処刑は夏官から兵を借り受けて行なうことになるだろう。こういう言い方はどうかと思うが、兵士は人を殺傷することに慣れている」 「そうでしょぅか? 犯罪者の取り締まり、反乱の鎮圧、いずれの場合も、兵士は殺さなければ殺される場に身を置いております。そこにおける殺傷と、抵抗できないよう縛《いまし》められ、刑場に引き出された罪人の命を絶つことを同列に語れましょうか」 「だが……刑吏が罪人を処刑するのは殺人ではない。殺すのは正義であって、刑吏ではありません。刑吏の手を借りて天帝がそれを行なう。——そう言い含め、重々報いてやれば刑吏も納得するのでは」 「……本当に納得できましょうか?」  如翕は俯《うつむ》き、そして、静かに首を振った。自分でも納得はできまい、という気が瑛庚にもした。 「いっそ遺族に引き渡したい気がしますね……。彼らならば喜んで刑吏の代わりをしますでしょう」  率由もまた乾いた笑いを零した。 「まったくです。——ですが、それでは復讐になる。復讐のための私刑を防ぎ、復讐の連鎖を止めるために司法はあります」  言って、率由は力なく宙を見上げた。 「だからこそ、刑吏が身を挺《てい》すのでございましょう……」 「二人に訊きたいのだが」  瑛庚は両者の顔を見比べる。 「民は殺刑を求めていたろう。下官も殺刑を肯定していた。だが、国の高官になればなるほど躊躇する声が聞かれた。これはなぜなのだろう?」 「それは……」  如翕は口を開きかけ、そして閉ざした。 「実際に刑獄に関与する我々が躊躇するのは当然のことだが、自分が決に関与するわけでもない高官がこぞって慎重論を言う。考えてみれば不思議ではないか」  率由は頷き、 「それは……確かに」 「国は自らだから——なのではないだろうか。私には自分が、国の一部であるという自覚がある。司法に限らず、自身の意思が国の行ないに何らかの形で反映されていると感じている。そのように国政に関与する官には同じく、国の一部であるという思いがあるだろう。己の意思は国の意思であり、国の行ないは己の行ないだ。だからこそ、国が犯す殺人は己の殺人に他ならない」  ——父さまは人殺しになるの?  殺刑は人を殺す行為だ。誰かが狩獺の生命を絶つ。その誰かは国家によってそれを命じられる。そして、国家にそれを勧めるのは瑛庚ら司法官であり、瑛庚らを司法官に任じた国官だ。——つまりは、彼ら自身が殺人者になる。 「人を殺した者に死をもって報いる、これは多分、理屈ではない。それと同時に、人を殺してはいけない、殺したくないという思いも、やはり理屈ではないのだろう。国による殺刑は自己による殺人、ゆえになんとしてもそれだけは避けたい、と思う。……これはもちろん、私情に過ぎないのだが」  瑛庚の中には人殺しを忌む本能的な怯懦がある。そして、この怯懦は民の中にも宿っているはずだ。だが、民にとって国は天の一部だ。天が選んだ王と、王が選んだ官僚たち。あらかじめ民と隔絶され、自らの意思とは切り離されている。だからこそ、殺刑を求めることに躊躇がない。狩獺を殺すのは自身の手ではない。天の手なのだ。 「仮にも司法の官が、私情によって是非を言うことは許されない。ましてや私情によって刑罰を歪めることはあってはならない、と思う。だが、人を殺したくないという思いは、正義を知る者にとって、殺人者に殺刑を与えよという義憤と同じくらいやむを得ない思いだ。私は人殺しになりたくない。他者に殺人を勧めたくはない……」  如翕が深い息をついた。 「殺罪には殺刑を、これが理屈ではない反射であるのと同様、殺刑は即ち殺人だと忌避する感情も理屈ではない反射なのでしょう。どちらも理ではなく本能に近い主観に過ぎませんが、その重みはたぶん等しいのではないかと」 「……だろう」 「殺刑復活が殺刑の濫用に繋がることは確かですが、濫用を止めることが司法の職分であることもまた確かです。復活するにせよ、停止を貫くにせよ、どちらにも一理あって、これだけでは結論を出すことができません」 「ならば、残るは狩獺自身でしょう」  率由が言って、瑛庚も如翕も首を傾げた。 「理は完全面均衡しております。ならばあとは狩獺自身の問題に還元されましょう。そもそも主上が大辟《たいへき》を用いずと定められたのは、刑罰の目的は罰することになく、罷民を教化することにあるとしたからでございます。すると問題は、狩獺の教化が可能がどうか——そこにかかっていることになります」  しかし、と瑛庚は如翕を見る。 「狩獺に更生の可能性があるのだろうか」  如翕は——意外なことに首を傾げた。 「私は狩獺に会いましたが、およそ罪を悔いる者だとは思えませんでした。ですが、大司寇の言葉がどこかに引っかかっているのです。人以下の豺虎だと決めつけておいて、改心せよと言うのか——という」  瑛庚は吐胸《とむね》を衝かれる心地がした。 「狩獺が駿良を殺した理由は知れません。狩獺なりの理由があるはずだ、という大司寇の言葉には否定できないものを感じます。その理由さえ明らかにすることができれば、教化することも可能なのかもしれません」  瑛庚は考え——そして頷いた。 「狩獺に会ってみよう」       8  二日後、瑛庚《えいこう》らは王宮を降り、芝草《しそう》西にある軍営に向かった。  本来ならば、刑獄《けいごく》において罪人の鞫問《じんもん》を行なう際には王宮の下——外朝《がいちょう》司法府に罪人を呼び出す。だが、万が一にも狩獺《しゅだつ》に逃げられては大事になるうえ、民に感づかれると途上を襲われかねない。それで関係する官と協議のうえ、瑛庚らが囹圄《ろう》に赴くことになった。  徒刑《ちょうえき》に処された罪人は圜土《かんごく》に送られるが、徒刑は公のため土木工事などの労働に就くことだから圜土の所在は一定しない。必要な場所に移動するものだった。これに対し、未だ刑罰の定まらない罪人は、拘制《きんこ》に処された罪人と共に、軍営内にある囹圄に捕らえられることになっている。  瑛庚らは軍営を深部へと通り抜け、兵によって幾重にも監視された囹圄に入って鞄問のための堂室《へや》に至る。さして広くはない建物で、開口部はほとんどなく、壁の高い位置に細く明かり採りだけが切ってある。必然的に薄暗い堂内は、太い鉄格子によって二分されていた。一方の壇上に瑛庚らが坐る。しばらくして、格子の向こうに罪人を監督する掌囚《しょうしゅう》と兵士が現れて、一人の男を引き連れてきた。  ——これが狩獺か。  瑛庚は不思議な気分で思った。狩獺はこれという特徴のない男だった。事前に痩身《そうしん》で中背の男だとは知っていたが、ここまで「それだけ」の男だとは夢にも思わなかった。剣呑《けんのん》な感じはしない。眼差しにも力がない。およそ覇気を感じさせず、疲れたようにも倦んでいるようにも見えたが、病的な感じはしなかった。少なくとも豺虎《けだもの》には見えない。本当にどこにでもいる男だ。 「何趣《かしゅ》でございます」  掌囚は言って、狩獺を床に留め付けた椅子に坐らせ、手伽《てかせ》の鎖を足許の鉄環に繋いだ。一礼して堂室を退出する。あとには警備のため兵士が残ったが、彼らは格子の向こうに黙して留まり、以後口を開くことも表情を変えることもない。鞫問の内容は耳に入っても聞いてはならない。聞かなかったことにすることが、彼らには義務付けられている。  狩獺は眼を伏せ、おとなしく鎖に繋がれている。坐った姿がいかにも大儀そうだったが、ことさら虚勢を張る様子もなければ、反抗的な気配もなかった。  ひとしきり見つめ、瑛庚は訴状を開いた。 「お前は十六件の刑案《うったえ》について、罪を問われている。これについて申すことはあるか」  瑛庚の問いに、狩獺は答えなかった。無言のままあらぬほうを見ている。 「どんなことでもいい、現在自分がおかれている立場に対し、言いたいことはないか?」  瑛庚は問うたが、これに対しても返答はない。瑛庚は困惑し、とりあえず十六件、個々の刑案についてその動機を問い、犯行に至った経緯を改めて問うたが、これにもほぼ無言で、必要があれば頷くだけ、時には口の中で「ああ」「そう」のような声を上げることもあったが、説明らしい説明は一切聞くことができなかった。  瑛庚がついに鞫問を諦めると、率由《そつゆう》がそれに代わった。率由は事前に狩獺の内心が知りたい、と言っていた。率由は狩獺に父母のこと、郷里のこと、どのように育ち、何を思ってきたのかを問い質《ただ》そうとしたが、これにも狩獺は答える気がないようだった。あらぬほうを見たまま、ろくに返答もない。  狩獺は、徹底して瑛庚らを拒んでいた。引き出されてきたから仕方なくそこにいるものの、およそ会話をする気はなく、命乞いのためにしろ何にしろ、何かを訴える気もない。無視するように視線を逸らし、太々《ふてぶて》しいまでに沈黙を貫く。  その態度を肚に据えかねたのか、やがて如翕が口を挟んだ。 「お前は、その態度を改める気はないのか」  苛立ったように言ったから、以前会ったときにも同様の態度だったのだろう。狩獺はちらりと如翕を見た。口許を歪めて微かに笑う——侮蔑《ぶべつ》するように。 「罪を悔いるつもりはないようだな」  堪りかねたように率由が声を上げた。 「お前が身勝手で殺した犠牲者の中には、幼い子供、赤児もいる。それについても悔いるところはないのか」  狩獺は率由には眼もくれず、口の中で、別に、と呟く。 「惨いことをした、という後悔すらないのか」 「……別に」 「遺族に対し、詫び状の一つもないようだが、罪を償う気すらないということか」  率由が厳しい声を出すと、狩獺は冷ややかな眼でやっと率由を見返した。 「償う? どうやって?」 「それは——」 「俺が詫びたところで死んだ者が生き返るわけじゃない。生き返りでもしない限り、死んだ奴の家族だって俺を許したりはしないだろう。だったら償おうなんて考えるだけ無駄じゃないか?」  さらに何かを言おうとする率由を、瑛庚は制した。 「——つまりお前は、自分が取り返しのつかないことをしたと了解しているのだな? それが犠牲者の家族を苦しめていることも分かっている」 「……まあね」 「それを自覚したのはいつだ? 最初から分かっていて罪に手を染めたのか、それとも捕らえられて初めて自覚したのか」 「最初から、だな」 「分かっていてなぜ?」  狩獺は頬を歪めて笑った。 「俺みたいな屑《くず》だって生きていかなきゃならないんでね。顔に墨が入っていちゃ、職にも就けないし住むところだってない。喰って寝るためには仕方ない」 「……お前は自分を屑だと思うのか」  瑛庚の問いに、狩獺は嗤《わら》った。 「あんたらはそう思っているんだろう? 俺みたいなのは人間の屑で、憐れみの欠片《かけら》もない豺虎だ」  嘲《あざけ》るようにそう言う。 「どうせ俺なんて目障《めざわ》りなだけだろう。あんたらのお綺麗な世界には必要ない。それどころか邪魔なだけだ。生きる値打ちもない屑で、だからさっさと死んで片付いて欲しいんだろう?」  言ってから、狩獺は詰まらなそうに明かり採りから射し込む光のほうを見た。 「——殺したければ殺せばいいんだ。俺だって拘制になんかなりたくはないからな。ひと思いに殺されたほうが清々する」  瑛庚の胸に浮かんだのは嫌悪感だった。この男は狡《ずる》い。自らが犯した罪を承知していながら、瑛庚らを加害者にして被害者の立場に潜り込もうとしている。 「……駿良《しゅんりょう》を覚えているか? 昨年夏、お前が芝草で殺した子供だ。首を絞めて殺害し、十二銭を奪った」  狩獺は無言で頷いた。 「……なぜ殺した」 「理由なんか特にない」 「なくはないだろう。なぜ子供を殺さねばならなかったのだ」  強く問うと、根負けしたように狩獺は一つ息を吐く。 「騒がれると面倒だ、と思ったんだ」 「相手は子供だ。脅すだけで充分だったのではないか? あるいは力ずくで奪えば良かったろう」 「脅して泣かれでもしたら、人が集まるだろう。力ずくで奪おうとして、逃げられたら騒ぎになる」 「だから殺して奪ったのか? たかだか十二銭を」  狩獺は頷いた。 「なぜだ? お前は懐に金を持っていたろう。なぜ駿良の十二銭が必要だったのだ」 「別に必要だったわけじゃないが」 「では、なぜ?」 「何となく」 「まさか本当にそれだけではあるまい。何を思って子供を襲ったのか、申し述べてみる気はないか?」  狩獺はうんざりしたように瑛庚を見る。 「聞いてどうするんだ? どうせあんたらは俺が悔い改めるとは思っちゃいないだろう。殺すだけの人間につべこべ訊いてどうなるんだ」 「聞かせてもらう必要がある」  淵雅《えんが》は、狩獺が子供を殺したのには、狩獺なりの理由があるはずだ、と言った。その理由さえ明らかにすることができれば、狩獺のような罷民《ひみん》を救う術も分かる、と。同時に駿良の父親は叫んだ。なぜ息子は殺されなければならなかったのか、と。瑛庚はせめて、その答えのどちらかを得なければならない。  狩獺は大儀そうに呟いた。 「……強いて言うなら、酒が飲みたかったから、かな」 「だったら自分の懐にある金で買えば良かったろう」 「そこまで欲しかったわけじゃなかった」  意味を取りかねて瑛庚が言葉に詰まると、だから、と狩獺は言う。 「……たまたま通りかかったとき、あの豎子《こぞう》が十二銭を握ってることを知ったんだ。母親とそう話していたんでね。その前に、酒を売る小店の前を通って、そうしたら一杯十二銭だと書いてあった。一瞬、酒を飲みたい気もしたんだが、十二銭払うほどのことじゃない、と思ったんだよ。それで通り過ぎたら、ちょうど子供が十二銭持ってたんで」 「それで?」 「ちょうどだ、と思ったんだよ。ちょうど十二銭か、って」  瑛庚は愕然《がくぜん》としたし、如翕も率由も唖然としたように眼を瞠《みは》った。 「……それだけ、ではなかろう?」  率由が狼狽えたように訊いたが、狩獺はいかにも面倒そうに答えた。 「それだけだ。……まあ、運が悪かったってことだな」  平然とそう言う。まるで他人事のように。  この男が反省することなどあり得ない、という苦い諦念が浮かんだ。狩獺が自身の罪を自覚することもないし、自覚するために自身の行為と向き合うこともないだろう。「どうせ俺は屑だ」という甲羅の中に逃げ込んで、永遠にそこに留まり続ける。いかなる言葉もこの男を諭すことはできないし、そればかりか、傷つけることすらできない。  瑛庚は暗澹たるものを感じた。瑛庚らがひたすら迷っていたのは、自身の中に殺人を忌む本能的な反射があるからだ。——だが、この男にはそれがない。  狩獺と瑛庚らの間には、目の前にある鉄格子のように堅牢な隔壁があった。瑛庚らはこれを乗り越えることが難しく、狩獺にも乗り越えるつもりがない。格子の向こうにいる狩獺を瑛庚らが忌むように、狩獺もまた格子の向こうにいる瑛庚らを蔑み、憎んでいる。  ——悔い改めることのない者もいる。  瑛庚は忸怩《じくじ》たる思いで改めて確認した。同時に、自分はこの男に何を期待していたのだろう、という気がした。その罪状、これまでの行ないを見れば、狩槻自身に教化されるつもりなどないことは明らかだった。狩獺は怒り、憎んでいる。恵施《けいし》がそうであったように、教化に抗うことが狩獺にとっては何かに対する復讐なのだろう。  膨大な鞫問の記録を見れば、それはもとより明らか、にもかかわらずなぜ、瑛庚らは狩獺が教化できるか、本人に会って確認しようとしたのだろう。まるでそれが最後の望みの綱であるかのように。  思っていると、率由が低く言った。 「……三刺については件《くだん》のごとし、三宥、三赦にもあたらない」  本来ならば、本人の前で司法が結論を述べることはない。——にもかかわらず。 「司刺は罪を赦すべき理由を見つけられません」  苦いものを吐き捨てるような口調だった。ひょっとしたら率由は、狩獺本人の前でこれを言うことで、狩獺をせめて傷つけたいのかもしれない。  如翕が頷いた。その顔には率由と同じ種類の苦渋《くじゅう》が滲んでいる。 「典刑は罪状によって殊死《しゅし》と判ずる」 「司刺はこれを支持いたします」  典刑、司刺の意見は揃った。——瑛庚は決断しなければならない。  彼らを睨《ね》め付ける狩獺の眼には蔑むような色が浮かんでいた。定まろうとしている自身の運命に怯む様子は欠片もなかった。嘲るような笑みが「どうせ殺すんだろう」と言っている。結局のところ俺を許せないと言うのだろう。理解できず共感もできない豺虎など目障りなだけだから死ねと言うのだろう。  ——やはりそうなんだろう?  瑛庚は深く息をついた。 「狩獺の罪は明らかで、しかも余人には理解し難い。だが、許せないから殺してしまえ——殺刑とはそんな乱暴な用いられ方をして良いものではないだろう。遺族の応報感情、民の義憤、そして理解を超えた罪人の存在に不安を抱かざるを得ない気持ちは分かるが、刑罰はそういう次元で運用して良いものではない……」  率由がわずかに怯んだように視線を落とした。 「主上は大辟《たいへき》を停止なされたが、これは刑措《けいそ》を国家の理想とするからだ。許せないという私情に流され、ここで軽々に殺刑を用いれば前例となる。事実上の殺刑復活を意味し、これは国情から考えて殺刑濫用に繋がる畏れがある。それを留めるのもまた司法の職責だが、前例を作ったのが私情であり、濫用を促すのが国情であれば、果たして本当に押し留めることができるかは心許ない」  しかしながら、と瑛庚は声を落とした。 「そうやって殺刑を畏れるのは、結局のところ殺人を忌む怯懦に由来するのだと思う。殺罪には殺刑——これが理屈ではない反射であるのと同様、殺人に怯むのも理屈ではない反射だ」  だからこそ、瑛庚らは狩獺に会いたかったのだ。もしも狩獺に更生の可能性があれば、瑛庚らは殺刑を用いずに済む。 「どちらも理ではなく本能に近い。私情と言えば私情に過ぎないが、この根源的な反射は互いに表裏を成しており、これこそが法の根幹にある。殺してはならぬ、民を虐げてはならぬと天綱《てんこう》において定められている一方で、刑辟《けいほう》に殺刑が存在するのは、たぶんそれだからなのだろう」  如翕が戸惑ったように頷いた。 「そもそも刑辟自体が矛盾をはらんでいる。一方で殺すなと言い、その一方で殺せと言う。典刑が罪を数える一方で、司刺がこれを減免する。刑辟はもとより揺れるものだ。考えてみれば、天の敷いた摂理そのものがそのようにできている。両者の間で揺れながら、個々の刑案において適正な場所を探るしかないように」 「‥‥天が」  率由は呟く。瑛庚は頷いた。 「我々は殺刑停止と殺刑復活、そのどちらにも一理があって決めかねる、と結論づけた。殺刑にせよという反射も、殺刑を畏れる反射も重みは変わらない、と結論づけた。唯一残るのは狩獺自身に教化の可能性があるかどうかだが——」  ——だが、しかし。  瑛庚が言い淀んだとき、唐突に狩獺が割って入った。 「俺は悔い改めない」  はっと上げた瑛庚の眼に、狩獺の歪んだ顔が飛び込んできた。囚人の面《おもて》には揶揄《やゆ》するような、どす黒い笑みが浮かんでいた。 「絶対にそれはない」  ……そうか、と瑛庚は頷いた。 「まことに無念だ……」  瑛庚は言って、典刑、司刺を見渡した。 「——殺刑もやむなし、と判ずる」  言った途端、狩獺が腹を抱えて笑い出した。まるで勝者の笑いだった。同時に虚しいほどの敗北感が染み入ってきた。絶対に相容れない存在、これを全否定して抹殺してしまえば、受け入れがたい現実を拒むことができる。狩獺を切り離すことで、世界を調整しようとしている。  瑛庚らは敗北を喫したように項垂《うなだ》れた。その全てが朱に染まっていた。いつの間にか堂内には強い西陽が射している。明かり採りに入った鉄格子の影が黒々と堂内の全てを切り刻んでいた。  ——まるで何かの予兆のように。  瑛庚らは狩獺の存在を拒んだ。狩獺は取り除かれ、世界は一旦、相容れぬ存在などないものとして整う。——だが、これはおそらく始まりに過ぎない。国は傾いている。傾いた国に湧いて出る妖魔のように、世界の亀裂はさまざまに立ち現れてくるだろう。その綻《ほころ》びを自身の眼から覆い隠すため、人々はこれから様々なものを自ら断ち切っていく。  そうやって崩れていく。……国も人も。項垂れたまま、瑛庚は席を立った。如翕、率由がそれに続く。  彼らは高笑いする罪人を格子の向こうに残し、眼を背《そむ》けるように俯いたまま、重い足を引きずって席を離れた。 [#地付き] (『yom yom vol.12』収録)